影響を受けたクリエイターの訃報に思うこと
藤子不二雄と言えば、自分は80年代に多大な影響を受けている。
藤本弘さんと我孫子素雄さんの二人で藤子不二雄のペンネームを持ち、多くの人気作品を生み出した。マンガ家デビューは1951年で、藤本17歳、我孫子16歳の頃だという(4コマ漫画『天使の玉ちゃん』)。
その後、単発作品をいろいろ重ねた後、1959年に創刊された週刊少年サンデーで、『海の王子』を連載開始。
アニメ化もされてブレイクしたのが、1964年の『オバケのQ太郎』ということになる。
アスト「藤本さんと我孫子さんは共同創作のマンガ家だけど、完全に2人で手掛けたのはオバQが最後らしいな」
NOVA「実のところ、俺が好きなのは1996年に亡くなった藤本さんの作風だと、後から知った。『ドラえもん』『パーマン』『新オバQ』『エスパー魔美』『キテレツ大百科』などSF色の濃い話は藤本さんの得意ジャンル」
アスト「我孫子さんの得意ジャンルは何だよ?」
NOVA「『怪物くん』『忍者ハットリくん』『プロゴルファー猿』『笑ゥせぇるすまん』など、ホラー系とかリアル系、ブラックユーモア系など、あくまで児童マンガに軸足を置き続けた藤本さんに比べ、年齢を重ねるにつれて青年向けにシフトしていき、多ジャンルに渡るようだ」
アスト「『怪物くん』と『ハットリくん』の作者ってだけで、影響を多く受けているな」
NOVA「ただ、87年の昭和末期にコンビ解消して、白藤子である藤本さんと、黒藤子である我孫子さんの作風の乖離が鮮明になったわけだ」
アスト「すると、藤本さんが陽キャで、我孫子さんが陰キャってことか?」
NOVA「作風から、そう邪推されるみたいだが、実のところ我孫子さんの方が社交的な性格で、その分、大人社会に馴染みが強くなって、児童マンガが書けなくなったらしい。一方の藤本さんは、いわゆる『少年の魂を持った大人』であり続けて、SF、恐竜、メカ、野球、鉄道、カメラ、模型、西部劇など多趣味に及んで、そういうエッセンスが作品に反映されていたんだな」
アスト「つまり、社交的でないからこそ、趣味や空想の世界に没入できて子どもに夢を与える作品を生み出すことができる。一方で、社交的だと目線がどうしても大人社会を意識するようになり、作風も大人の風刺色が強くなるってことか」
NOVA「我孫子さんの場合は、旅行好き、映画好き、ゴルフ好きで、パチンコ好き、マメに日記を書き残して自伝マンガの資料にも役立ったとか、エッセイマンガも好評を博したとか、この期にちょっと調べるだけで、興味深いクリエイター背景が浮かび出る」
NOVA「俺自身は、別に意識して我孫子さんを追っかけていたわけじゃなく、むしろ藤子マンガは旧世紀に卒業していた感覚だったけど、80年代の懐かしい時代を思い返しながら、藤本さんのお人柄や、違うタイプだけど相方へのリスペクトや感謝の念を忘れない朗らかな我孫子さんのイメージ(間接的ながら著作への感想コメントでの印象)からは、改めて少年時代からの夢や想像力をありがとうとか、偉大なクリエイターの心意気から汲みとれるものを味わいたく思ったわけだ」
アスト「今回は急な訃報で驚いたりもしたが、たまたま藤子不二雄話をしていた時というのも、何かの縁。お悔やみを捧げるぞ」
NOVA「過去のできごとを日記でマメに残しているという点に敬意を表するなあ。貴重な日本マンガ史の生き証人だったわけだし、『まんが道』とか歴史資料としても当事者の手による作品なんだから、作者が亡くなったことで改めて注目度が上がったと思う」
アスト「歴史家としての御託よりも先に言うことがあるだろう」
NOVA「ああ、そうだな。アストが言ってたから繰り返さなくてもいいかと思ったけれど、それじゃあ偉大な先達に対して、礼を欠くことになるか。吸血鬼ドラキュラや、オオカミ男、フランケンといったモンスターキャラたち、それにござる口調で喋る古風なキャラは、我孫子先生のエッセンスを元にしています。自分のブログキャラのイメージソースとして、想像力を養ってくれた作品の創り手に感謝と哀悼を捧げたいと思います。どうぞ、安らかにご冥福を」
(当記事 完)