ウルトロピカルな⭐️GT(ゲーム&トレジャー)島宇宙

南の島と上空の宇宙宮殿を舞台にTRPGや特撮ヒーローなどのおしゃべりブログ。今はFFゲームブックの攻略や懐古および新作情報や私的研鑽メイン。思い出したようにD&Dに触れたりも。

基礎呪文の話1.5(改め幻想論)

♦今回も魔法の復習……のはずが

 

 

ダイアンナ「リバT、愛とは何だと思う?」

 

リバT『また、唐突な質問ですね、マイクイーン』

 

ダイアンナ「愛とは何かを求め、また受け入れて欲しいと思う感情。それが肉体的な欲求であれ、精神的あるいは社会的な欲求であれ、要は自分の欲望であり、その欲望を肯定してもらいたいという想いだと考えるのだがどうだろうか?」

 

リバT『もう、ご自分で結論を出しているではありませんか。他にも定義はいろいろ考えられますが、要はただの幻想ですね』

 

ダイアンナ「幻想か」

 

リバT『そう、人の心が生んだファンタジー。妄想が形をもって結実したものを愛と称するのかもしれないし、与え受け取るという契約関係にロマンティックな心情を加味したものを愛と名付けたのかもしれないですが、とにかく「好き」がエスカレートして、制御不能なまでに高まったものを「愛」と考えるのが一般的なイメージか、と』

 

ダイアンナ「制御不能とは、一種の暴走状態だな」

 

リバT『ええ、理性というリミッターで抑えられず、時に奇跡を、時に破滅をもたらす双刃の剣のような激情こそ、愛と考えることもできます。魔法で言うなら「心術」の分野ですね。代表的なのはチャーム(魅了)の呪文で、偽りの親愛感情を相手にもたらします』

 

ダイアンナ「パグマイアにはないぞ。眠りとか魅了とかは」

 

リバT『ええ、クラシックD&Dでは魔法使いの初期推奨呪文とされているのが、呪文書を読み解くためのリードマジックと、戦闘に使えるマジックミサイル、スリープ、チャームの3種。魔法使いとしては、冒険中に魔法の巻物(スクロール)か呪文書を見つけ、リードマジックを駆使して自分の呪文書に書き写し、使える魔法のレパートリーを増やすことが必須の作業となります』

 

ダイアンナ「レベルが上がれば、自動的に新しい呪文を覚えるわけではないのだな」

 

リバT『クレリックはそうですが、魔法使いは違います。運が悪ければ、2レベル呪文を使えるようになったのに、肝心の呪文を入手していないということも、ルールそのままだと有り得ます。ただ、呪文の入手手段を冒険中以外にも、街の魔術師ギルド(学院、魔法屋と称することも)や師匠から授けられたり、お金を払って買ったり、手順を省略してレベルアップで自動習得できるようにするのも、DMのシナリオおよびルール運用次第ですね。

『一応、後にはシステマチックに進化していくのが完成されたルールなんですが、クラシックD&Dはプリミティブ(原初的)なので、ルール的にはファジーで解釈が分かれることも多く、「ルールに厳密に決められていない。だからDMが必要に応じて補う。プレイヤーはDMに意見するのはかまわないが、最終的な決定権はDMにあることは念頭に置いて、DMの判断には従うべし」ということです』

 

ダイアンナ「DMとプレイヤーの丁々発止の駆け引きがオールドゲーマーの間で、よくネタにされるみたいだが、それは曖昧なシステムだからなのか?」

 

リバT『D&Dは、いろいろ未完成なシステムで、その代わり、DMというシステム運用にタッチできる能動的な裁定者、自作シナリオの制作者およびアレンジャー、そしてプレイヤーキャラを中心にした物語世界の構築者を設定することで、未知なる無限の可能性を生み出した作品なのです。未完成品を売ることで、それを自分の手で完成させる喜びを与える商品という意味では、プラモデルと同列のホビーで、だからこそ多くのクリエイターを生み出す温床にもなり得た、と』

 

ダイアンナ「なるほど。未完成なパーツと、その設計図を売って、自分たちの手で組み立てて自分オリジナルの作品を完成させる楽しみを提供したということだな。ダディーがそこにクリエイティブな魅力を感じ、愛を注ぎ込んでいる理由も分かった気がする」

 

♦未完成品の魅力と、その限界


ダイアンナ「未完成だからこそ、完成させるための労力を注ぐ楽しみはある。レベル36、イモータルという目標に向けてキャラを育てるクラシックD&Dのシステム構造も、それを助長する形をとっているな。言わばゴールを示して、そこに到達することを目指す充実感という奴だ」

リバT『ただし、未完成だからこそ自分で補う喜びはあるけれど、手を加えても思ったような形に完成せず、かえってダメになるような代物には、それ以上の愛は注ぎ込めずに諦めるのも人情かと。ましてや、その完成しない作品に愛を注ぎ込むことが時間の浪費にしか思えず、その分のエネルギーを他に注ぎたいと思うようなら、趣味として見切り時ということですね』

ダイアンナ「なるほど。人間に対する愛情が冷めるというのも、そういうことかもな」

リバT『何の話ですか?』

ダイアンナ「うむ。最近のダディーの別ブログでの言動に気になるところがあってな。親愛関係の背後にある情念を分析したい気になった」

リバT『ああ、あれは「こじらせた情念の解放」が必要なケースですね。「満たされない想い」はどこかで昇華しないといけないのですが、グランドマスターは作品鑑賞や分析、妄想を体現した創作活動でそれができている。一方の相手は、単独ではそれができないために、GMの承認と受容を求めようとして、過剰にリアルに踏み込んできた。それがGMの世界構築には異物となって相入れないから、「お前はお前で自分の世界を勝手に作れ。いちいち俺の世界に踏み込んで来るな。自分の狭い世界に、俺を引きずり込もうとするな」ってことでしょう』

ダイアンナ「キーワードは90年代っぽいな。その時点でダディーも大きな挫折を味わったし、件の人物もどうやら同じようで、そこにはお互い通じ合えるものもあったということだろうが、その後の生き方が全然違う。ダディーは『ホビー館』を基軸に、趣味を中心とした自分の見つめ直しを図り続けて(そこに手段としてのリアルを注ぎ込んで)自己の充実を図った。その途中で、共同創作という機縁を持ちかけてきたのが件の人物で、ダディーもそれを面白いと思って乗った。その辺がまあ、一つの蜜月だったわけだ」

リバT『その理解で間違っていないようです。ただし、決定的な差は、グランドマスターは「趣味とリアルを分けて考える姿勢」でいたのに対し、件の人物は「趣味とリアルを混同するのみならず、リアルを趣味と同一視してしまった」こと。その背景が分かったのは後年ですが、とにかくリアルの人付き合いのマナーが欠如しているにも関わらず、だったら趣味人としての作法もあるかと言えば、それすらない』

ダイアンナ「趣味の世界で、過剰にリアルを持ち込みすぎると興醒めになる、という原則は、趣味人の世界では当然だろうがな」

リバT『かっぱえびせんを美味しく食べている時に、「えびの値段が高騰してるから食べれない」とか、「何で商品名がかっぱなんだよ~、どこにもかっぱ成分がないじゃないかよ~」とか、そんなことを叫び出すような人とは、いっしょにかっぱえびせんは食べれません』

ダイアンナ「その例えはどうかと思うが、ところで、本当に何でかっぱなんだ?」

リバT『さあ。調べてみましょうか。(検索中)なるほど、元ネタは50年代に「かっぱ天国」というマンガがあって、そのキャラクターとコラボした「かっぱあられ」というお菓子をカルビーが生産していて、その延長で1964年に誕生したのが「かっぱえびせん」。つまり、かっぱえびせん誕生は、新幹線や、前の東京オリンピックや、オバケのQ太郎や、何よりもドゴラと同じ年。ドゴラの眷属であるケイP一族が、どうしてかっぱえびせん好きなのか、分かった気がします』

ダイアンナ「へえ、なるほどな~とリアクションしたい薀蓄だが、今の話の流れには何の関係もないよなあ」

リバT『そうですね。ここでグランドマスターなら、かっぱえびせんから急カーブを描いて、スポッと基礎呪文のストライクゾーンに収まる超変化球芸を魅せたりもできるのでしょうが、私めにはまだ、そこまでの芸の引き出しはないようです。速やかに、話を戻します』

ダイアンナ「愛の話だな」

リバT『違います。こじらせた情念の解放の話です。究極のところ、仏道修行、悟りを開くというのも煩悩からの解脱、あるいは煩悩即菩提の教えに通じるものですから』

ダイアンナ「うわ、宗教話か。勘弁してくれよ」

リバT『私のキャラはヒト信仰の聖職者ですからね。宗教話の一つや二つできなければ務まりません』

ダイアンナ「ヒト信仰は仏教なのか?」

リバT『パグマイアの犬は畜生界の衆生で、それが人界を目指すという意味では、仏教でしょう。六道輪廻の基本です。さて、宗教といっても究極の目的は一つ、「人間がどう生きるのが正しいのか、その生き方で社会をどう良くしていくのか」に尽きるのではないでしょうか』

ダイアンナ「つまり、目的意識と方法論といったところか。だけど、そういう価値観は人それぞれだと思うんだけどね」

リバT『人それぞれなのは、人の人生や背景事情がそれぞれ個別のドラマに満ち溢れているからでしょうね。そういうバラバラなものに、一定の規範を妄想し、形を与えて構築したのがプリミティブな宗教。ただし、その妄想が広く深く、多くの人々の心に感じ入らせたからこそ、そのファンタジー的な教えが理論的な体系を得て、学問のレベルにまで発展して、世界の文化や文明にまで影響を与えたのが、キリスト教であり、イスラムであり、仏教であり、その他、多くの地域宗教だと考えることも可能です』

ダイアンナ「すると、神や仏は妄想、幻想の産物だというのか?」

リバT『愛と同程度にはね。その意味で、神仏の概念は、人の想像力が生み出したもの。ただし、多くの人がそこに「普遍的かつ絶対的な真理」を見出すことができたために、あるいは成立時期における未来の理想を見出したために、周囲に広め、弾圧を乗り越え、時には戦争すらも引き起こすものの、理想と現実のギャップに反省し、宗内での意見衝突まで至り、一部の教えを改変アレンジし、理論的整合性を組み直し、時代を超えて伝播した。それこそがリアル宗教ではないか、と愚考します』

ダイアンナ「ざっくりまとめたものだなあ」

リバT『よって、その宗教の断片的な一部を切り取って、間違えていると主張するのは簡単なんですね。時代に合わない要素とか、多様な人間を一面的に断定的に解釈し過ぎていることとか、理論と現実が噛み合わないぞとか、いろいろツッコミを入れたい向きもあるでしょう。でも、それに対する反論は一つです。「では、お前に、その宗教を超える価値概念を想像創造し、時代や場所を超えて伝達させることは可能なのか?」と』

ダイアンナ「そんなことは、普通の人間にはなかなか無理だろう」

リバT『だけど、成し遂げた人はいますよ。ニュートンや、アインシュタインみたいな科学者や、円谷英二手塚治虫石ノ森章太郎みたいな特撮やアニメの製作者、スティーブ・ジョブズのようなIT関係や、ゲイリー・ガイギャックスみたいなゲームデザイナーなどなど、それぞれの分野で偉業を成し遂げ、その死後も理論や作品が継承され、多くのファンによって神格化に近い崇敬を浴びている偉人たちが』

ダイアンナ「しかし、宗教ではないじゃないか」

リバT『似たようなものですよ。人の生み出した思想や哲学、社会や文化に大きな影響を与えた概念という意味では。あるいは、ゲーテやダンテのような小説家、バッハやベートーベンのような音楽家ゴッホピカソのような画家の人たちを挙げてもいいですし、それぞれの偉人がそれぞれの内面世界を芸術の形で表現しています。芸術=形に結実した幻想と見なすことも可能』

ダイアンナ「すると、結論は何だ? 愛も、宗教も、科学も、文化も、芸術も全て幻想ということか?」

リバT『ええ。素晴らしいですね。人の心が生み出したものは何と豊かなのでしょう。私は、幻想というものを大いに称賛します。幻想は時として現実を凌駕し、超越するといっても過言ではない。それこそが素晴らしいファンタジーなのですよ』

ダイアンナ「ああ。リバTが『愛は幻想』と言ったのも、単に切り捨てたわけではないのか」

リバT『まあ、「愛はただの幻想」と切り捨てましたけど、何か?』

ダイアンナ「いや。だから、幻想は素晴らしいんだろう? つまり、愛は素晴らしいということじゃないか」

リバT『正確には、愛は素晴らしくもなれば、陳腐にもなるということですね。所詮はただの幻想ですから』

ダイアンナ「どっちなんだよ。幻想がいいのか悪いのか、はっきりしてくれ」

リバT『はっきりしないから幻想なんじゃないですか。言い換えれば、愛も幻想もそれだけじゃ未完成品なんです。断片的な想いの欠片(パーツ)でしかありません。そこに形を与え、方向性を決めるのも、またそれらを受けとる人間次第なのです。受け手の人間がつまらなければ陳腐化し、魂を込めて受け継いで、技法や趣向を加えれば、さらに豊潤かつ芳潤なものになる。どんな素晴らしいものでも、受け手の人間性がそれに相応しい形に磨かれていなければ、猫に小判、豚に真珠、馬の耳に念仏、かっぱえびせんの川流れになるのです』

ダイアンナ「最後のは何だ?」

リバT『無駄に終わるという意味です。川に流れて水浸しになったかっぱえびせんは美味しくない。どんなに素晴らしいものでも、受け手が悪かったり、正しく味わえなければ、ダメだということですよ。ですから、人は素晴らしいものを、きちんと味わえる作法や教養を磨こうとするのです。何かを批評するのも、それを通じて、より良い作品に磨きをかけて欲しいためであり、バカにして悦に入るためではありません』


♦幻想論


ダイアンナ「もはや、基礎呪文の話じゃないので、タイトルを改めた。番号は2ではなくて1.5。全ては幻想に結実し、それをいかに美味しく味わうかって話だな」

リバT『幻想を楽しめるというのは、人間の高度な精神性、教養、文化的な能力だと考えます。なお、私めも、クイーンも幻想の産物ですから、ここまでの話から何かを感じ入っているということは「幻想のもつ感受性」を受け入れているということですね』

ダイアンナ「確かにリバTは、バットクイーンの夢の世界から生まれた自由の象徴だし、あたしは可能性の未来から来た花粉症ガールの分身みたいなものだから、幻想を否定されると消えるしかないということだな」

リバT『だけど、今、私たちは意見を交換しているし、それを読んでいる読者さまもいるわけです。これは、ただの幻想で、何の意味もないことでしょうか?』

ダイアンナ「読者は本当にいるのか?」

リバT『いますよ。私には感じ取れます。中には苦笑している人もいればうなずいている人、まばたきしている人、にっこり微笑んだ人、お~いとツッコミ入れている人、パグマイアやD&Dの話はどこに行った? と不満に思っている人もいるようですね。ドゴラの超時空感覚器官にはありありと感じ取れますよ』

ダイアンナ「ドゴラにそのようなものが備わっていたとは初耳だ」

リバT『「ドゴラ 超時空感覚器官」で検索してみて下さい。いろいろ面白いサイトに行き当たりますから。お勧めはこの記事ですね』

ダイアンナ「特撮や、ロボットアニメのマニアは喜ぶだろうが、TRPGとは一切、関係ないな」

リバT『だけど、まさか本当に、超時空な資料が発見されるとは思いませんでした。グランドマスターだったら、喜んで読むような内容です』

ダイアンナ「一つ分かったのは、現実ではない幻想を伝達するのに、いかに多くの人たちが熱意を込めて、技を磨き、その成果物を愛する者たちがいて、そういう想いが歴史を紡ぎ出して来たかだな」

リバT『ええ。そんな彼らの偉業に対して、ファンタジーやSF、空想物語へのロマンをグランドマスターは強く感じているので、そこに共感を示せない限りは、風流を解しない野暮な人間と見なされるわけですね』

ダイアンナ「愛の形は人それぞれ。何に愛を、ひいては人生の一部を捧げるかも、その人の価値観によるんだな。その価値観にいちいち疑義を呈しがちな人間は、根本的に相容れないと見なされるわけだ」

リバT『少なくとも、グランドマスターは幻想を愛する人間ですからね。ここでも、今後とも、ゲームという名の幻夢をお宝のように、大事に扱いたいと思います』

(当記事 完)