ウルトロピカルな⭐️GT(ゲーム&トレジャー)島宇宙

南の島と上空の宇宙宮殿を舞台にTRPGや特撮ヒーローなどのおしゃべりブログ。今はFFゲームブックの攻略や懐古および新作情報や私的研鑽メイン。思い出したようにD&Dに触れたりも。

現状の思い

 さて、「コメント対応」について、あれこれ書いてきて、改めて読み直して思ったこと。

 

 自分は、とあるコメント主を相当イジっているな。

 時には優しく、と見せかけて、時には相当に乱暴に。

 割と、そういうのは「躁鬱気質による時期の問題」と説明できるのだけど、つまり自分には「オープンになって、人と積極的に交流したがって、外に向かって喋りたがる」時期と、「寡黙になって、他人より自分のことが気になって、内面に抱え込んだことを自分の中で処理することに夢中になる」時期とが、普通の人よりも極端に現れやすい、ということである。

 

「外に対して、比較的アクティブに接する自分」と「外なんてどうでもいい。自分の気持ちの整理だけ考えていれば、幸せな自分」。

 前者のときなら、話しかけられて嬉しくなって、おしゃべりに夢中になることもできるけど、

 後者のときなら、話しかけた奴は不機嫌なNOVAにゴミを見るような目で一瞥されて、「あんた邪魔。私に構わないで」と冷たく切り捨てる対応をとりがちである。

 だから、NOVAとリアルに付き合う友人は、大変なんだと思う。「社交的なNOVA」と「イライラピリピリモードなNOVA」の両方を的確に見極めて、それに応じた関係を作ることを求められ、そこのところをクリアしなければ、まあ、付き合っても長続きしない結果になる。

 例を挙げるなら、「わがままで自分勝手で気まぐれなお嬢様」にどこまでも従うことのできる執事キャラか、「ツンデレ傾向のあるヒロイン」に対して、どう好感度を上げて、爆弾を爆発させないように自分の思いを叶えるロールプレイを楽しめるか、そういう人でないと、NOVAの相手には向かない、ということだ。

 

 って、自分でこう書くと、たとえにしても「自分をヒロインとして扱うのはどうよ」とか、「そこまで面倒くさい奴だったのか、俺。書いてみるまで、きちんと分かっていなかったや。何て鈍感な俺。自分のことなのに気付いてなかったなんて(落ち込み)」とか、いろいろな思いが吹き上がってきて、それを文章にすれば、まあ、たまには面白い(あれこれ妄想して、勝手に舞い上がったり、勝手に落ち込む系のキャラも、最近はよく見るようにもなったし、自分は結構、共感しがちで面白く感じる。まあ、だからこそ、最近はそういう心の動きを掲示板やブログのカキコネタとして、試しに書いているんだけど、それが本当に面白いかどうかは周囲の反応次第だな)。

 ツイッターで毎週日曜日の朝に、リアルタイムで番組実況つぶやきすることを繰り返してきたからか、割と思ったことや頭の中の妄想とかをストレートにタブレットのタッチパネルで打ち出せるようになっており、最近は久々にブログの方を再開してみたら、日々の訓練の成果が現れていて、昔は「パソコンで、じっくり考えながらキーで打ち込んでいた内容」が、今は「考えた瞬間、いや、脊髄反射的に考えもしないこと(無意識段階で思いついたこと)が瞬時にポンポン飛び出す」ようになっている。

 要するに、「考えなくても、勝手に手が動き、NOVA自身が自分で楽しめるギャグネタとか、懐古記録とか、自然と生成できるモード」を習得できた、と。これで友達いなくなっても安心だね。「一人でいろいろ呟いて、自分で言ったことを聞いて自分で笑い、日々幸せに生きていける」のだから。「自動的に、NOVAの手がNOVA自身を楽しませる最高のエンターテインメントを生成できるのに、どうして他人の文章なんていちいち読まないといけないんだ」と書いてしまうのは思いきり傲慢としても、鬱の時には気持ちがそうなりがちで、孤独を愛してやまない。これぞ、ザ・ハードボイルド、漢の道だぜ、一人でだって平気でいられるぐらいタフでないと、人は生きていけない、とか、割と自画自賛系の屁理屈を構築して悦に入ることもしばしば。

 

 

 そして、ふと我に返る(躁モードに切り替わる)。

 

 何だか虚しいぜ。俺、こんなことをしてて本当に楽しいのか?

 ぼっちなんて、寂しくない?

 ちょっとぐらい(精神的に)引きこもるのはやめて、思いきり外の空気を吸ってみないか?

 自立と孤立は違うんだぜ。

 もっと明るく生きてみたっていいんじゃないか。

 

 

 そして、前向きトーンに切り替わったNOVAは、明るくルンルン気分でスキップしながら、「ねえねえ、○○君」と朗らかに声をかけてみるのである。相手の反応を確かめたりもしながら。

 

★鬱モードへの対処

 さて、人付き合いを忌避しがちな鬱モードと、オープンマインドな躁モードの両方を、状況によって使い分けることが器用にできれば、フォームチェンジを多用するヒーローみたいな奴にだってなれる。

 そのためのスイッチ(起動条件)は何なんだ、とか、暴走スイッチが誤って起動した際に止める方法とか、まあ、自己流で心理学の本とか、自己啓発の本とか、コミュニケーション理論とか、自分の内面を見つめ直す内観的な祈り・瞑想的な修行とか、それなりに読んだり、試してみたりしてきたわけだけど、
 全体的なトーンは、躁モードのことは良く書いてあって、鬱モードのことは悪く、というか、心配そうに、それが忌避すべき罪悪であるかのように、いや、まあ、「鬱の人には、頑張れと言ってはいけない」とか、「鬱の人には、周囲の人は優しく、いたわるように接しないといけない」とか、何だか鬱が真っ当な人間扱いされておらず、保護されるべき幼児に対して接するようなアドバイスがある。
 これらの記述を読んで、普通の人はどう思うか。
「うわ、鬱の人って面倒くせえ。そんな奴とは関わりたくない。鬱の人には話しかけない方がいいな」


 こうして、世の中で、鬱に対する差別的感情が知らず知らずに形成され、鬱から引きこもり、鬱な奴はダメな奴って空気が出来てくるのである。


 ふざけるな、と躁モードな正義感の熱血NOVA君なら叫ぶだろうけど、今のぼくは奥ゆかしい鬱モードなので、そんなことはしない。
 鬱は周りの雰囲気に合わせるのが苦手で、世の中が仕事とか社交とか人間付き合いを軸として回っているのに対し、自分の世界に引きこもることの方に幸せを感じるだけで、「頑張る、頑張らない」は別次元の話である。
 普通に社会に出ていれば、「おお、頑張ろうな」「俺ももっと頑張らなあかんな」「みんな、ここはしっかり気ぃ張っていきましょう」って普通に言うし、それでエネルギーをもらって頑張っている人だっていっぱいいる。まあ、頑張りすぎを心配する気持ちは分かるし、社会が頑張れを推奨する中で、それに馴染めない人がいるのも事実。頑張ってない人が、何だか気まずさを感じて、それでも心のエンジンがうまく掛からないで、不甲斐なく思いつつも、日々の業務を淡々とこなすことで自分の居場所だけは維持している人だっている。


 そもそも、「鬱の人に頑張れと言ってはいけない」という命題を守るには、「社会は頑張れと言ってはいけない」か、あるいは「鬱の人は、頑張れという社会に出てはいけない」のどちらかを選ぶことになる。

 前者は想像すると、嫌ですよ、これ。社会は頑張れを推奨しないので、別に頑張ったって頑張らなくたって、どっちでもいいや、という気になって、無気力が蔓延する。まあ、みんなでのんびり構えて、マイペースで生きていきましょう、とスローライフを推奨するって道もあるけど、人間関係で疲れた都会から出て自然が豊かな田舎でのんびり生活って番組が流行るのも分かるけど、それって「余暇とか老後の楽しみ」であって、そういうのが常態ってのも、何だか違うような気がする。
 まあ、自然が豊かな田舎が何だか理想郷みたいにもてはやされる風潮はあるけど、実際に田舎暮らしをしている人たちから見ると、過酷な自然との戦いとか、日常生活はそれほどのんびりってわけでもないとか、決して理想郷じゃないことは少し考えれば分かることだ。温泉旅館はのんびりくつろげるってイメージはあるけど、それは客側の感想であって、運営している側の苦労といえば如何ばかりか。
 田舎がどうこうってのは本筋ではないけど、療養場の理想を「それが一般社会のあるべき姿」のように喧伝するのは、どうかと思うな。
 そして、頑張れについても、似たようなことを思う。ええと、「いつも頑張れを言って、エンジンをかけるのが日常」で、「たまには休め。今日は日曜日だから無理して頑張らなくてもいい」とブレーキをかけて、エンジンが焼ききれないようにするのがバランス感覚。鬱はエンジンが掛かりにくいのが欠点なので、無理矢理、アクセル踏み込んで、ただでさえ機能不全な状態を悪化させるのは、下手なドライバーとか、メンテナンスが不十分な場合なんだろうけど、「壊れたエンジン扱いして、そのまま放置」ってのも、それで鬱の人が救われるか、世の中が良くなるのかって感じが否めない。
 そもそも、「頑張れと声をかけない社会」ってのは、実際にそういったところを想像すると、気が滅入りますよ。明るく笑顔で「よっしゃー、ここは一発気合を入れて頑張ろうか」というムードメーカーがいない会社とか、そういうノリを「あいつ一人で何を突っ走ってるんや」と批判気味に蔑む人間の多い職場とか、「みんなに頑張れと言ったら、頑張ることができない子が傷つくので、うちは頑張れと言わないのが教育方針です」という学校とか、想像したら実にイヤですよ。
 まあ、「あいつ一人で突っ走る」ことも、突っ走ることがダメではなくて、一人というのがダメ、という風にすると、ドラマのネタになるんですけどね。
 要するに、「一人で頑張るんじゃなくて、俺たちにも頑張らせろ。みんな仲間だ」のノリです。社会は相変わらず頑張れ推奨であって、全くもって問題なし、というのが自分の意見です。

 後者のケース。
「鬱の人は、頑張れという社会に出てはいけない」
 これって最悪ですよ。
 今年のプリキュアは、フレフレとみんなを応援するのが特徴のキュアエールが主人公なんですが、要するに「支援系のリーダー」なんですな。イケイケドンドンでみんなを引っ張るリーダーじゃなくて、仲間の気持ちとか孤立しがちな人の気持ちに積極的に関心を持って共感し、すごいと褒めてあげて、自分も一緒に頑張るから、応援するからってトーンのお節介共感系主人公というか、最近、子供のアニメではそういう癒し系の主人公が増えているのかな、とシンカリオンを見てもそう思う。
 あ、NOVAもそういうタイプの教師やっているような気がする。
 で、鬱の人はどうちゃらこうちゃらって言うと、「鬱の人は、今年のプリキュアシンカリオンみたいな陽性の癒し系アニメを見てはいけない」という結論になったりするわけであって、
 今は鬱モードな時期のNOVAとしては、「鬱の人は○○しちゃいけない」「鬱の人には○○しちゃいけない」(心が傷つくので)と、鬱に対する禁句とか制限事項が多くなって、それが当たり前のような感覚になると、いわば、鬱を腫れ物あつかいみたいにすると、「鬱の人のできること、生きる場を奪っていく」ことにもなり兼ねない、と考える次第。

 鬱モードの人間だって、それが自分に関係ある問題だと分かれば、積極的に頑張って考えてみるのもやぶさかではないわけだし、まあ、自分でコントロールできずに、どんどん下へ下へと落ち込んでいく人間に対して、上へ上へと推し進める社会が居心地悪いのも分かるし、
 だからと言って、「あなたはそのまま下に下に沈んで行けばいいのよ。みんなと同じように上に上がらなくたって、あなたには自分の居場所があるわ。底辺というドン底がね。あなたはそこで、自分の幸せを追求すればいい」なんてのは、決して優しさとは言えないんだよね。
 まあ、その言葉を真に受けて、『ドン底底辺で、引きこもってハッピーライフ』なんてタイトルの小説を書いてしまいそうな奴がここにいるんだけどさ。今の自分は、そういうのに共感しないから書けないんだけどさ。


 さあ、そろそろ時間切れ。
 エンジン掛かるの遅いけど、表の仕事のために動き出さないと。
 タイトルに「対処」と書きながら、ちっとも対処にまで話が届かなかったけど、気が向けば、続きを書くと思うし。
 今回は、「対処の前提としての、現状分析とか自分の中の方針を見据えてみました」ってことかな。
 結論として、「社会は、躁鬱関係なしに、頑張れを変わらず推奨していい」「鬱モードの人は、やたらと応援してくる社会に対して拒否反応を起こすのではなく、まずは傷ついた心を癒せる場を、どこに、あるいは何に求めるか、自分の居場所の確保を社会に求める方向で考えて行った方が建設的」って感じ。

 まあ、心を傷つけちゃいけないって言うけど、心って何をしていても傷つくと思うんだな。心が傷つくことや、傷つけることを恐れていちゃ、何もできないもん。
 だから大事なのは、傷ついた心を癒せるヒーラー役とか、ヒーリングスポットとか、そういうものを確保し、維持するためのハウツー本なんかの方が建設的だと考えている。
 「いかにダメージを受けずに、モンスターと戦うか」の答えが、「モンスターと戦わなければいい」じゃ、正解の一つであっても、楽しくない。

 「ダメージを受けることを前提で、いかに有能なヒーラーや、便利な回復拠点を確保できるか」という話を考えたいのだけど、「あなたは、ぼくのヒーラーだから、いつでも癒しの呪文をかけてね」と言うキャラに対しては、「いや、今はMP切れだし、俺が癒しの呪文をかけても、君はきちんと戦ってくれないし、前衛の仕事をしない奴を癒しても仕方ないし、癒した分はしっかり働け。お前を癒すだけのメリットを示せ」と、僕なら自分の身や心を守るために、それぐらいのことは主張するね。