ウルトロピカルな⭐️GT(ゲーム&トレジャー)島宇宙

南の島と上空の宇宙宮殿を舞台にTRPGや特撮ヒーローなどのおしゃべりブログ。今はFFゲームブックの攻略や懐古および新作情報や私的研鑽メイン。思い出したようにD&Dに触れたりも。

ロードス島戦記との出会い

 86年話の続きです。

 この年は、日本でRPGという言葉が浸透し始めた年と言えます。

 

 前回書いたイノベイター理論によると、アーリーアダプターからアーリーマジョリティに広がった時期と言えましょうか。つまり、「知る人ぞ知る」から「多くの人が知っている」に切り替わる時期。

 その立役者がファミコンソフトのドラゴンクエストです。

 

ドラクエの影響

 

 ドラクエ1が86年5月に出て、ドラクエ2が87年1月に話題を呼び、そしてドラクエ3が88年2月にTVニュースに取り上げられるほど、ブームを巻き起こした時代は、ちょうどNOVAの高校時代にかぶっていて、おかげでNOVAがTRPG漬けになるのにも、ドラクエが一役買った時期です。

 

 念のため、NOVAは高校時代にドラクエをあまりじっくりプレイしていません。だって、ファミコンを持っていませんでしたから。友人とは言えない知人(親の友達の子供、小学生)の家でファミコンを触らせてもらった時に、ドラクエがあったので、「へえ、これがドラクエか」と出だしをプレイさせてもらったぐらい。

 それでも、ジャンプのファミコン神拳とか、ゲーム雑誌は読みまくっていたので、エアプなのに情報にはやたらと詳しい奴で、周囲の話に普通について行ったり、むしろ周囲のブームを利用して、D&Dのプレイに友人を誘っていった記憶があります。

 ドラクエに直接影響は受けていないけど、雑誌でコンピューターRPG情報が普通に載るようになって、その起源であるボード版RPG(テーブルトークという呼称が定着するまでの会話型アナログRPGの通称)についても言及されるなど、一気に露出が広がった時期ですね。

 

★そしてロードス

 ドラクエからは当時、間接的な影響でしたが、 NOVAに「これがD&Dだ」と具体的かつ直接的に啓蒙してくれたのが、コンプティーク誌で連載が始まったリプレイ『ロードス島戦記』です。
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 この話のタイミングで小説の画像を貼るのは時期尚早と言えますし、現在進行形の同作者による『グランクレスト戦記』を貼るのもおかしいのですが、すぐに出せる関連作がこれだったもので。
 あ、『グランクレスト戦記』は現在アニメ放送されていて、自分は今夜も見る予定ですが、それよりも今月に小説の最終巻が出る方が楽しみですね。自分、小説のファンではあるけれど、アニメのファンとは言えないもので。それでも、まあ、アニメが作品の啓蒙につながるようであれば、応援はしますけどね。ただ、このアニメ化が『グランクレストRPG』を切り捨てた方向で動いた感じなのが、TRPGファンとしては複雑な気分です。
 一応、PS4でもゲーム化されて発売予定みたいですが、まだ、どういう内容かはチェックしていない。

 と、いきなり現在の話に飛んじゃいましたが、86年の時点では、まだ小説も書かれておらず、あくまで「D&D誌上ライブ」という斬新な試みの(RPGのプレイ会話を戯曲風に描くというリプレイ形式の走り)連載記事ですね。
 この時点で、自分はすでにD&Dという言葉は知っていましたので、たまたま立ち読みした雑誌の新連載記事を見ても、すぐに飛びつくことができました。
 たぶん、最初にD&Dという単語を知ったのは、ゲームブックの後書きでしょうね。『火吹き山の魔法使い』に続くファイティングファンタジーシリーズの2作め『バルサスの要塞』の後書きで、後のグループSNE社長となる安田均氏が文庫本11ページ分の解説で、14回も『ダンジョンズ&ドラゴンズ』『D&D』と言及しながら(実際に数えてみた)、ゲームブックの背景にあるD&Dの影響について語っておられる。
 『火吹き山』の方でも、紀田順一郎氏が安田氏の83年の『LOGIN』誌に載せた記事を引用する形でD&Dについて触れていたし、『ソーサリー』でも田中克己氏のあとがきにはD&Dの言及が。

★NOVAに対する安田均氏の大いなる影響

 そう言えば、『ロードス島戦記』を監修の形で世に出したのも安田均氏だ。当時、水野良氏の名前は、小説が発表されるぐらいの時期まで伏せられていましたしね。NOVAにD&Dのことを教えてくれたのは、安田氏以外あり得ないわけですよ。まあ、この時代、NOVA以外にも、安田氏経由でD&Dを知った人は相当数に上ると思われますが。
 いやね、それにしても、自分自身がここまで見事に安田氏の敷いたレールの上に乗せられて、D&Dへの道を突き進んでいたとは思わなかった。ええと、『バルサスの要塞』の後書きを書いたのが安田氏だったというのも、今ごろ再確認したわけだし。高校1年生当時は記事内容だけが頭に入っていたものの、記事を書いた人の名前なんて、あまり意識していなかったもので。後書きなんて、そう何度も読み直すものでもなかったですし。いろいろなゲームブックをしながら、徐々に記憶に刷り込まれていったのでしょう。自分でも貪欲に情報を求めていた時期だったのもあって。

 氏の当時の御年が36才とのことだから、今の自分より10才は若いわけで、そう思うと、自分のこの10年は無駄に年を重ねたなあ、と思わなくもない。いや、まあ、そういう形で比べるのも何だかおこがましいわけですがね。そもそも、自分は36の年は、足の骨を折って人生の一つの転機を迎えていた時だったし。
 決して華々しくはないけど、自分なりに頑張って苦境を乗り越え、今まで漕ぎ着けたのだから、決して卑下するものじゃない。うん、頑張れ、自分。

 ともかく、この86年の10年後くらいには、NOVAは安田社長の下で働くことになっていました。高校生時代の自分が知ると、すげえ、と目の色を輝かせていたでしょうね。
 でも、阪神・淡路大震災と、その後ぐらいに訪れたテーブルトークRPG冬の時代などの影響で、芽が出ないまま3年間の夢の見習い生活を終えた、ということで、人生山あり谷あり。
 その後は、趣味と仕事は別物と気持ちを切り替えつつ、ネットで自己実現とか未練の昇華を図りながら、20年後の今日に至る、と。

 これまでは、捨てがたい未練な気持ちが先立って、でも、そんな自分が嫌なのもあって、自サイトでは匂わす程度の曖昧な書き方しかして来なかったわけですが、
 もう、いい加減に時効だと思うし、いや、別に悪いことをしたわけでもないのだけど、夢の挫折を後ろめたいと感じる気持ちもなかなかぬぐいきれなくて、それでも、まもなく終わる平成時代を総括するに当たって避けて通れない自分史でもあるし、この辺で公開情報にしてもいいかな、と。
 まあ、自分ではネット上で公開しているつもりでも、無名の個人のブログ記事にそれほどの注目も集めないでしょうしね。適度な自己満足で、ささやかな自尊心を満たせればいい程度。

 って、ロードス島の話題だから、水野良氏に関する話になるかなあ、と思ったら、まあ話の順番ということで、先にゲームブックや誌上リプレイの流れから、安田社長の話になりました。で、そこから、自分の職歴の披露になってしまったのは想定外でしたが、テーブルトークRPGの思い出に向き合うなら公開しておいた方が書きやすいのも事実。
 それと一応、念のため、現在のNOVAはグループSNEとは無縁の立場ですし、関係者に迷惑をかけたくはないので、かつて知り得たプライベート情報は一切話題にしないことを明言します。
 昔(15年ぐらい前かな)、やはり元SNE関係者だった山本弘氏に、掲示板関係で不適切な対応をして迷惑を掛けたこともあって、その件も決して悪意ゆえの不祥事でないことも(改めて)付け加えつつ。

 ここまで書いて、当記事での総括としては、86年に「ゲームブックなどからD&Dの情報を得た」「同時期にドラクエが世間に登場し、RPGに対する認知が広がって、NOVAが勉強しやすい環境が構築されていった」「そんな中で、ロードス島戦記の誌上リプレイが始まり、D&Dへの興味をますます喚起していった」って、ところですね。
 そして、改めて昔を振り返ると、当時からテーブルトークRPGの伝道先駆者の一人として活動していて、この春、『ウォーロック・マガジン』復活の話を聞いて、昔ながらの監修者として活動を続けておられる安田氏への感謝と、懐古の気持ちと、応援したい想いが入り混じっていることを実感した次第。
 惜しむらくは、今回の『ウォーロック・マガジン』の前身である『T&Tマガジン』の方が、自分のチェックが遅れて、未購入のまま様子見状態になっていたことですね……って、懐古記事のはずが現状話になっているので、このネタははてなの記事にした方がいいようですな。
 『ウォーロック・マガジン』刊行の折にでも。

 まあ、昔の『ウォーロック』誌も86年末創刊なので、30年ぐらい時代を遡って「歴史は繰り返す」的な感慨を覚えていたり。