ウルトロピカルな⭐️GT(ゲーム&トレジャー)島宇宙

南の島と上空の宇宙宮殿を舞台にTRPGや特撮ヒーローなどのおしゃべりブログ。今はFFゲームブックの攻略や懐古および新作情報や私的研鑽メイン。思い出したようにD&Dに触れたりも。

イモータル(最後の雑感)

 イモータルに関する書き残したことを細々とまとめてみます。

 

 まず、イモータルになるためには、実はプレイヤー専門ではなく、DMの役割も掛け持ちしながら、うまくキャラを使い分けることが必要不可欠なのでは、と考えます。

 理由の一つは「イモータルになるためのルール、というかガイドライン」は、マスタールールの2冊のうち、プレイヤー用のルールには書かれてなくて、どうしてもDM用のルールを参照しないといけないから。

 

 ダイナストとして帝国を治めるには、DM用のルールである「コンパニオンの領地経営、大規模戦闘」に関する理解も必要になるし、DMからそれらのルールを教えてもらうよりは、自らもDM用のルールを積極的に読み込んで、賢明な領地経営や戦争の勝ち方を熟知していないといけないでしょう。自分はプレイヤー専門だから、DM用ルールは手を出さないほうがいい、なんて受け身のプレイヤーじゃ、そもそもダイナストには向いていないのでしょうな。

 帝国のマップ管理も本来はDMの仕事ですが、ダイナストが自分の領地のマップを管理する方がゲームを進める上では楽です。だったら、ダイナスト自身がDMとして国王や皇帝をNPC、すなわちDMが使うキャラクターに位置付けてしまえば、冒険用の報酬はプレイヤーたちが獲得する一方で、自分は彼らの活躍によって領地を新しく得たり、国内でのトラブルを無事に解決したりすることによって、NPCである自分の領主キャラに経験値を与えればいい。

 

 弟子育成が必要になる他の3つの道(エピックヒーロー、パラゴン、ポリマス)についても、そもそも自分がプレイヤーの立場で、他のレベルの低い弟子を引き連れての冒険なんて成立するかと言えば、結局、低レベルキャラは足手まといにしかならないんですね。足手まといキャラを率いての冒険も、ゲーム以外の物語なら成立するのでしょうが、ゲームでは成立しにくいです。

 例えばエキスパートルールには、次のようなことが書かれてあります。

 「このレベル差は大きな問題を引き起こすことがある。参考として、レベルの差が5以上の時はキャラクターたちは別個に冒険を行うべきである」

 このルールを忠実に解釈するなら、師匠キャラと弟子キャラが5レベル以上の差がある場合、プレイヤーキャラとして一緒に冒険すべきではないのです。なら、どうするか。

 答えは簡単、師匠キャラはNPCとして、DM預かりにすればいい。彼は弟子に冒険のきっかけを与え(あの山から薬草を取ってくるのじゃ)、必要なら冒険のヒントや助力を与え(ヒーリングポーションを3本、持って行くがいい)、見事に使命を果たして帰ってきた弟子をねぎらい(それでこそわしの弟子じゃ)、その弟子育成によって(ハウスルールとして)経験値を得て、師匠としてのレベルを上げたらいい。つまり、師匠と弟子がそれぞれの立場で経験を積み、共に成長できるように考えればいい、と。

 

★師匠と弟子、DMとプレイヤー

 クラシックD&Dは初期のTRPGであるため、いろいろと不備が指摘されております。もちろん、伝統あるゲームなので、その不備を補うためのアイデアやハウスルールなど、非常に多くの蓄積された経験も、有形無形の財産と言えるわけですが。
 そして、D&Dの不備や失敗を見て、後発のTRPGや会社、業界が自分たちのルールや経営のやり方、ユーザーとの関わり方を考える材料に使い、先人の失敗も後に続く者の参考事例にできる歴史の教訓をいくつも生み出したわけで。
 もちろん、後に続く者が愚かで、先人のミスから何も学ばなければ、やはり歴史は繰り返す、で、そんな無能は市場や社会から淘汰されてしまうのが現実社会というものですが、D&Dのような現実模倣のゲームは、人生なら取り返しのつかない大失敗を先に擬似的に学ぶことができるというメリットもあります。逆に、現実では有り得ないゲームならではの失敗をしでかして、余計な苦労を抱え込むデメリットもあるのですが。

 業界としては、本国のTSR社はゲーマーの心を縛る帝国主義の権化と化して、自社のことしか考えず、業界全体の発展を目指す大局的な視点を持ち得なかった。ここが最大の失敗、と自分は考えます。
 それを横目で見ていた日本のゲーム業界は、市場規模こそ米国ほどではないにも関わらず、いや、それだからこそ、企業同士が険悪になって潰し合いをすることもなく、業界の横のつながりを維持しながら、トップ同士が割と仲良くゲーマー同士、手を取り合って業界全体の発展を目指していったような印象があります(少なくとも、アナログゲーム業界では)。自分が昔、SNE内部で見ていた限りは、よそのゲーム会社の悪口を言ったりするような風潮はなかったもんな。富士見のMAGIUSシステムの展開を除いては(こんなやり方じゃ、粗製濫造なだけでゲーム全体がダメになる、とか)。
 もちろん、90年代の角川お家騒動とか、デジタルゲーム業界の競争過多など、より市場規模の大きい場所では、いろいろと厳しい競争社会の原理が働いていたのだろうけど。それと会社内では、仕事の手腕やコミュニケーション能力の是非などによって、不景気を背景に生き残る者、脱落する者などサバイバル、浮沈の波があったことは、自分が経験したことでよく分かっているのだけど。まあ、それでもアナログゲーム業界では、同じゲーム好き同士で憎しみ合うとか、そういうレベルまで状況が悪化することはなかったと思うんだ。
 これは、まあ、日本がやはり、和をもって尊し、というお国柄だからなのか、それとも日本のアナログゲーム業界が資本主義社会ではそれほど成熟しないまま、少年の心を持った大人たちの夢のオアシスであり続けているのか、業界を離れて遠目で見ているだけの自分にはよく分かっていないのだけど、外で見ている限り、80年代のワクワクする熱気で今は回っているような気がする。先日買った雑誌なんかを読んでても。

 で、日本のゲーム業界の動向なんかは、いろいろ自分視点で書きたいネタもあるのだけど、それは先送りにして、イモータルの話に戻ります。

 師匠と弟子とか、DMとプレイヤーとか、企業とユーザーとか、そういう話になると、自分的にはついついゲームを通じた人生なんかを語りたくなる気分だったりしますが、イモータルってのも何というか、「ゲーム好きの、ゲーム好きによる、ゲーム好きのための憧れ、理想を体現した夢」って匂いが尽きない。
 クラシックD&Dを作ったゲームデザイナーの名前がフランク・メンツァーっていう人なんだけど、自分はこの人の生き方も結構好きですね。この人はD&Dの生みの親のゲイリーさんに憧れてTSR社に入社した生粋のゲーマーで、ゲイリーさんに近づきたい一心で頑張ってきた印象があります。
 そして、83年にゲイリーさんのAD&Dを元に、「そのルールを使わずに」新しいD&Dを作る責任者に抜擢された。それがクラシックD&Dと呼ばれる第4版なわけで、ついに憧れの人と同じ地位に並び立った喜びとはうらはらに、会社の方が当時「ゲイリーさんを追い出せ」という流れがあって、自分が追いついたと思ったら、憧れのゲイリーさんがハリウッドの方に出向、という名の体のいい左遷に追い込まれたわけで。

 フランクさんから見れば、夢が叶って、ついには憧れの人の右腕になれたぜ、と思った瞬間、おいおい、そりゃないよって流れ。それでも頑張ってゲイリーさんの分まで俺がD&Dを支えないと、って気持ちで作り続けたのがクラシックD&D。会社の中がゲイリー下ろしの雰囲気でギスギスしている中で、それでもゲイリーさんへの想いを捨てずに頑張るのは半端じゃない。84年のコンパニオンルールが、何だか前書きにまでゲイリーさん下ろしの文章になっちゃったんで(誰の文章か、署名がないのではっきりしないが)、85年のマスタールールでは、ゲイリーさんの一時帰還の喜びと共にゲイリーさん揚げの前書きを自ら書いた人。

 だけど、その年内に、ゲイリーさんが女帝ウィリアムズのクーデターを受けて追放されて、再度の愕然。イモータルルールは、そんな状況下で完成させたゲームになる。まあ、元のルールとは似ても似つかぬパワーゲームになったんだけど、当時のTSRがゲイリーさんを追い出して、元のTSRとは似ても似つかぬパワー企業になったものだから、そういう情勢をも反映しているのかも。
 もちろん、ゲームの根幹ルールを作ったのはフランクさんだけど、編集したのがゲーム素人のアンさんだったり、マスタールールでは別の人が担当したり、イモータルではまたアンさん担当だったり、何だかチグハグ感が否めないのも、まあ当時のTSRのお家事情からか。自分的には、コンパニオンルールは好きじゃなかったけど(低レベルのキャラには扱えない)、マスタールールは結構好きで(低レベルのキャラでも使えるウェポンマスタリーのおかげ)スッキリしている感があるのは編集の人の差かな。だったら、イモータルルールの方は分かりにくい編集かな、と思ったりもするんだけど、物を見ずに決めつけるのは良くない。

 ともあれ、86年に自分の責任であるイモータルルールを完成させたフランクさん(当時36歳。SNE安田社長と同じ年だったり。当時はまだ社長でなかった安田さんはその時期、ロードスの監修でD&Dをプッシュし、高校1年生のNOVAはそれを読んだりしながらD&Dに憧れを抱いていた時期)。これ以上は女帝ウィリアムズのために働く気にはなれないと言いきって、TSRのクリエイティブ・ディレクターの座を捨てて、尊敬するゲイリーさんの後を追って出て行っちゃった。ここ、凄く格好いいなあ、と思う。金のために魂を売らずに、自分の責任だけは果たし終えてから、敬愛する師匠の後を追って旅立つって。
 正直、今はゲームのルールがどうこうより、こういうゲームデザイナーの波乱万丈の人生ドラマを、wikipediaなどの経歴資料から読み取ることの方が面白い、と自分では思っています。うん、事実は小説よりも奇なり、とか何とか。

 さて、このフランク・メンツァーの話には続きがあって、ゲイリーさんと共同開発の新作ゲームがTSRの強権で潰されてしまい、多くのゲーマーをがっかりさせた。ゲームのタイトルは『Dangerous Journeys』(1992)、トラベラーのGDW社や、スティーブ・ジャクソン(英)のゲームズ・ワークショップ社からも出たらしいんだけど(期待の新作扱いでカタログにも載ったのは見た記憶がある)、すぐに消えたのはTSRが動いたからか、おのれ。せっかくの名作ゲームを(物も見ずに言う^^;)
 それでゲイリーさんと一緒に頑張ってみた新会社「New Infinities Productions」まで潰され、失意のフランクさんはゲーム業界から去ることを決意します。うん、その気持ちは分かる。90年代はゲームコレクターとして細々と著述したものの、2000年代はもっぱらパン屋さんを営んでいたらしい(何だかF91シーブックみたい)。
 だけど、2008年に敬愛する師匠ゲイリーさんの訃報に接して思うところがあったのか、2010年に新企業「Eldrich Enterprises」を立ち上げてゲーム業界に復帰……というところで、wikipedia日本語版の記述は終わっている。
 そこから後は、まだ自分も知らないので、いろいろ調べたいと思っているところ。

 ええと、イモータルについて、書き残したことを適度につづって話を締めくくるつもりが、クラシックD&Dの生みの親「フランク・メンツァーの経歴追っかけ」記事になったでござる。
 いや、何だか85年のTSR社のゴタゴタ話を知ったことで、クラシックD&Dをフォローする記事を書きたくなくなっていたわけですよ。例え、ゲームに罪はない、と考えつつも、背景事情が散らつくとどうしてもね。
 だけど、もう大丈夫。
 フランク・メンツァーの心意気には痺れたし、憧れもしたし、この人が心血を注いだゲームなら、熱く語る価値もあるってもんだ。まだまだ、クラシックD&Dを語りたい。アンさんでネガティブモードになった気持ちを、フランクさんの生き様がポジティブに引き上げてくれた。

 ただ、イモータルは本当にもう語れないんだ、今は。
 次に自分がイモータルに触れるとしたら、3つの可能性がある。

 1つ、「イモータルの能力や生活」について、ネットから新たな情報が手に入った場合。

 昔のルールがネット上で無料公開する可能性はゼロじゃない。 

 2つ、コンパニオン記事が完結して、マスター記事に移った場合。
 一応、イモータルはマスタールールに載っているんだから、そこに到達すれば、また書き残したネタに触れることがあるかもしれない。

 3つ、D&D第4版とか、それ以外でイモータルに似たような記述を見つけた場合。
 いや、第4版にはすでに見つけているんだけど。

 他のAD&D後継作品は、おおむね最高レベルが20なんだけど(基本ルールの範囲内)、第4版は30レベルまで高まっている。そして、最初の10レベルが「英雄の道」、20レベルまでが「伝説の道」、それ以降が「神話の道」と称され、レベルごとに覚醒段階が分かれているのが、いわばクラシックD&D風味。
 そして、この「神話の道」の部分の解説が、何となくイモータルに通じるように考えているんだけど、まだ詳細にチェックしていないわけで。
 おまけに、今の流れは5版で、4版は時機を逸したし、詳細に語れるほど俺も詳しくはない。
 だから、NOVAは語れないが、イモータルに曲がりなりにも興味がある人なら、「妖流デイン」ぐらい読めよ、と訴えているんだが、訴えられた人からは読みましたって報告もないのが現状なんだよな(アンテナの感度が鈍いものだから、勧められていることに、気づいていない可能性すら考えられる)。当人は「立派なオタクになりたい」なんて妙な夢を語ったりもしながら(俺の知る奴で、他にそんなことを言う者はいない)、いざ、そういう道を示しても情熱的に飛び込んでいかないのは、まあ、その程度の志なんだな、とこっちは判断せざるを得ないわけで。

 オタクとかマニアってのは、別になろうと思ってなるもんではないし、好きなものを情熱持って追いかけて行ったら、いつの間にか、いろいろ語れるようになって、愛好者とも交流を重ねているうちに、「この人みたいになりたい」とか、「この人にはとても手が届かないけど、遠くから活動を見ているだけでも勇気をもらえる」とか、「相変わらず良い作品を作ってるなあ、この人は。いつまでも自分を楽しませてくれるから好き」とか、「さすが◯◯。俺たちにはとても真似できないが、そこに痺れる憧れる」とか、とにかく人や作品に対する好きを全開アピールすることから始まるんじゃないかな。それを批評家ぶってクールに斬っても、その背景に自分の好きなのはこれだって裏付けがなければ、似非オタクって感じで虚しいぜ。
 好きを追求する愛好家。それが、やはりマニア道、オタク道なんだし、俺に向ける目線を俺の好きな作品に向けて情熱燃やせば、さすらい人さえポジティブに変われると思う。それを無視して、「自分に注目してくれ」的なことをメールで訴えかけるのは、「自分の中身に自信があってこそ、相手を楽しませられる自分に育ってこそ、訴えていい権利」なんだと思う。

 まあ、好きの行き着いた先に、イモータルの光があるなら、そういう尽きせぬ夢は追いかけていきたいよなあ、と思いつつ。イモータル語りは、これで幕。

PS. フランク・メンツァーさんや、多くのゲーマー、クリエイターにとっては、ゲイリー・ガイギャックス師はイモータルと化していると思う。ダイナストではないけど、エピックヒーローか、パラゴンか。業界人にとってのガイギャックスは、ウォルト・ディズニースティーブ・ジョブズと並び称されるほどの偉人だし、没後10年を経た今、ますます宣揚されるんじゃないかな。スピルバーグの恩人のユニバーサルスタジオ社、元社長のシド・シャインバーグ(まだ健在)でさえ、D&Dの生みの親のガイギャックス氏を高く評価していたそうだし、一流クリエイターには分かるんじゃないかな、と今さらながら、時流に乗って熱く語るNOVAであった。