ウルトロピカルな⭐️GT(ゲーム&トレジャー)島宇宙

南の島と上空の宇宙宮殿を舞台にTRPGや特撮ヒーローなどのおしゃべりブログ。今はFFゲームブックの攻略や懐古および新作情報や私的研鑽メイン。思い出したようにD&Dに触れたりも。

コンパニオンDMの道(その2)

さて、今日は多元宇宙の話だ。

こういう話だと、次元ドルイドの出番だと思うので、ハイラスさんにも登場願おうと思う。

 

ハイラス「うむ、木曜日を花粉症ガールの日と設定するなら、土曜日をドルイドの日に設定してもいいのではないか、と最近考えるに至ったハイラスだ」

 

いや、これからは忙しい夏場だからな。

お前が記事を書いてくれるなら、素晴らしい心掛けだ、と称賛したいところだが、記事を書くのが俺である以上は、お前のリクエストには応じられん。まあ、某花粉症ガールみたいに、俺の意識のないところで勝手に憑依して、俺の知らない原稿を書くような器用なマネをお前ができるなら、話は別だが。

 

ハイラス「NOVA殿には、そのような経験が?」

 

疲れがピークに来て睡魔に襲われているのに、何か書きたい、という衝動に見舞われている時には、結構あるぜ。

大抵は意味不明の文章になっているので、人知れず消しているが、時々、妙に面白い文章に仕上がっていることもあってな。世間では、自動書記とか、小人さんとか、創作の神が降臨した、とか表現しているケースもあるが、要は無意識のうちに作品が生まれる一種の職人芸みたいなものと理解している。スポーツ選手辺りが、意識せずに体が動いて球を打ち返したと言っているが、文章書きのような知的活動にもそういうことはある、というのが俺の経験だ。

 

さすがに常時発動できるような技ではないが、書くことが習慣化されていると、そういう局面に至るケースもあるんじゃないか。まあ、プロというわけでもないのに、そこまで自分の意識を追い込んで書くという経験をしている人間も少数派だろうし、無意識でキャラが動き出すぐらい自分の中で固まっていないと、記事書きの方向性も整合性が取れていない支離滅裂な文章になりがちだ。

また、そういう混沌めいた文章を、うまく推敲することで、きちんとした記事に編集し直すテクニックもあるんだけどな。普通に書いていても、まとまらない記事の要所要所を並べて、間をつなぐような文章の書き手もいるし、映像作品の監督なんかはそれができてこそ一人前とも言える。

ある小説家などは「とりあえず書きたいシーンだけを先に書きます。後から、そこに至るまでの中間部分を継ぎ足して、自分の作品にします。プロット? とりあえず、最初に思いついた書きたいシーンだけを書いたら、後から考えます」って言っていたな。

俺の場合は、書きたいシーンがあれば、伏線的に「夢の啓示」みたいに先にチラ見させて、雰囲気を高めていく手法が好きだが、長編の場合、途中で書きたい要素が膨らみ過ぎてしまって、結局、最初に書きたかったシーンまでなかなかたどり着けず、最初のシーンイメージまでが変質してしまうことを、プレ・ラーリオスで経験した。やはり、仕事をしながらの創作活動だと、長編は時間的にも心理的にも厳しいことを理解した。どちらかと言えば、短編エピソードの積み重ねの方が有効だな、と考えるに至っている。

 

ハイラス「なるほど。短いものをテンポよく、ということでござるな」

 

ああ、昔は長編書きたい志向で、短編じゃ納得できない傾向の人間だったんだが、プロ作家の練習には短編を数多く書け、という一般的なセオリーがあってな。俺は書いているうちにまとまらないで膨らんじゃうタイプの書き手なので、定石から外れがちだった。

まあ、短編の場合は、「一要素にテーマを絞って、最後にオチをつけるといい」って手法を身に付けたのは、ホビー館を立ち上げてから、掲示板書き込みを通じて、のことだった。

 

それはともかく、仕事と趣味の創作の兼ね合いの話だが……

 

ハイラス「いや、そもそも多元宇宙の話でござる。仕事と趣味の創作の話は、おそらく多元宇宙につなげるための長い前置きだと考えるのだが、この前書きサマリーは2000文字という字数制限があるのでな。一旦、ここで話を切っておくことにする」

 

うお、俺は本筋とは関係ない前書きだけで、原稿用紙5枚を軽く書いてしまう男だったのか。

さすがは、原稿用紙5枚以上の自由創作の課題で50枚を書いてしまうだけのことはあるぜ。

 

ハイラス「計画性がないから作業がはかどらないのではなく、計画性がないから余計な作業まで手を広げてしまうタイプの変わり者でござるな。手堅くまとめるだけでは収まりきらず、どこまでも突き進んでしまう気宇壮大と言えば、聞こえはいいが、勢い付いたら止まらなくて、あっさり世界の枠組みを突破してしまう冒険野郎」

 

そう、それこそ果てなき冒険スピリッツってものじゃないか。

 

ハイラス「巻き込まれる人間にとって、はた迷惑でなければいいのでござるが」

 

★長い前書きの続き

それはともかく、仕事と趣味の創作の兼ね合いの話だが、あまり、自分で縛りを強めすぎると、ただでさえ仕事でストレスが溜まるのに、ブログ活動そのものが嫌になってしまう。忙しい時期は、趣味でも無理をしない。どうしても、ストレス解消のために書き物をしたい、こういうネタを思いついたので何としても書き記したい、という時に限って、書くことにすると宣言するわけだ。
前もって、そうしておかないと、自分でブレーキをかけられずに限界まで突き進んじゃうからな。さすがに、いい大人なんだから、自分をコントロールする知恵ぐらいは働かせないと。
まあ、気力体力が十分であるとか、逆境にある時ほど勢いがついたとか、そういう時に書くことはするかもしれないが、なかなかコンスタントに書き続けることが困難な時期であることも分かって欲しい。

ハイラス「逆に言えば、気まぐれに書くことまでは否定していない、ということだな」

ああ、俺は機に応じて敏に振る舞いたい男だからな。
スケジュールは大事だが、臨機応変、思いついたら一直線、思い込んだら試練の道を行くが男のド根性、の歌を聞いて育ってきた70年代初頭生まれ。スポーツ根性アニメの精神は、生まれた時から心肝に染まっている。まあ、取り立ててスポーツに夢中になった男でもないのだが。
物理的に体を動かすことよりも、心理的なスポーツ根性、言いかえれば精神コマンドこそが我が生命線と言ってもいい。HPは低くとも、MPをHPに変換できる特技の持ち主だ。

ハイラス「D&DにはMPがないから、その手のルールは採用されていないが、ソード・ワールドでは、確かに生命力と精神力が副能力値Gで連動しているから、分からない話でもない。生命力は筋力にも関係しているが、副能力値GとHが極端に高くなるグラスランナーともなると、筋力が低いのに生命力は平均以上で、精神力が最強というケースもあるわけだ」

うむ、俺個人の能力をソード・ワールドになぞらえるなら、不器用、そこそこ機敏、知力高めと自負しているから、副能力値Aが低めで、Bがそこそこ高く、CとDがかなり高く、一方で筋力低く、そこそこ健康、精神力抜群となるから、EからHまでも同じような傾向性にある。そういう能力値だと、やはり魔法使いや僧侶のような呪文使いの方向性になるわけだ。
まあ、創作活動にも、知力と精神力、それに相応の健康状態は必要だけどな。気分が乗れば、一気に記事を書き上げる底力は必要だし、完成原稿を後から推敲するのにも精神力が必要だ。
記事を書き上げたところで体力や精神力を使い果たして、後から推敲しようともしない、自分で間違い探しや矛盾点もろくにチェックしない未完成品を、他人に読んでくれ、と訴えかけてくるようなのは、未熟な中高生ならともかく、職業作家を目指す人間としては、怠慢も甚だしいと言っておく。世の中には、製造物責任法というものがあって、職業人は自分の作り出す作品への品質管理すら求められる。

その点、アマチュアは自分の好きなように書けばいいので楽なんだが、やはり他人に読ませる文章を書くつもりなら、最低限のマナーは必要だろうな。むやみにネガティブなことを書かないとか、嘘を書かないように気をつけるとか、書いたことで生じるトラブルには前もって気を使うとか、自分なりの縛りを設けることも大切だと考える。
書くというのは知的な精神活動なんだから、うまく書けば知性にも精神性にもプラスの効果が出るし、下手なことを書けばネガティブなオーラを自他ともに蔓延させることになる。書いてある文章を読めば、その人間の知性や精神性がはっきり出るから、その点は俺も戒めないといけない、と考えることはしばしばだ。やはり、文章を書くことで、自分磨きにしたいと考えているわけで。自分の書く文章で、自分自身を励ますことができて、その上で、他人様を多少なりとも感化できればいいのかな、とも。
文は力なんだから、自分はアマチュアだから、と甘えているうちは質の高い文章は書けん。いやしくもプロを目指すという人間なら尚更だ。本気でプロになるためには、技術も精神性もプロとしての意識を早急に身につけることを自分に課して、そこの未熟さを指摘されても言い訳せずに受け止めるだけの矜持、柔軟さ、向上心は必要だろうな。プロは称賛の一方で、アンチさんから批判されることも常態なので、叩かれるとヘコむようなメンタルの弱さじゃやっていけない。

かつて、自分の不遇な人生を変えるためにプロ作家を目指すと言った人間を知っているが、俺から見たら順序が逆なんだな。プロ作家を目指すために、それに合わせて自分の人生観そのものを変える気概が必要だ。プロという環境で確かに人生は変わるかもしれないが、その環境がどういうものか、自分がそういう世界でやっていけるのか、プロのレベルと自分のレベルの差がどれぐらいか、そういうことを意識しておかないと、ただの空虚な夢に過ぎん。
プロになって周りから支えてもらおうなんて甘えた気分じゃダメで、プロ作家は自分の書く文章やアイデアで周りを支えてやるぐらいの気概で文章を書いている。結局、プロに憧れるだけの人間はプロの浴びている脚光に憧れているだけで、プロの苦労や技術を自らのものとして意図的に習得しよう、そのために試行錯誤を繰り返そう、その過程で自分を向上させようという意気込みで、そういった諸々に取り組んでいる自身への厳しさと、チャンスを見逃さないアンテナ感覚とか時機に合った幸運とか、そういう全てが必要なんじゃないかな。文章しか書けないから、というネガティブな人間じゃダメで、文章を書くことでは大抵の人間に負けないと言いきれる確信あってこそプロなんだな、と考える。
もちろん、プロデビューはゴールではなくて、そこからさらに成長する気構えが必要だし、成長する機会からは逃げないとか、自分が書く以上に他人の文章や創作作品を読み込んで、分析し、自分が持っていない技術が何か、逆に自分の強みはどこにあるかなどを考えるのは、アマチュア時代から意識的に磨かないといけないだろうな。
文章の書き手のプロを目指す以上は、自分の考えていること、感じていること、分析したことを自分の文章で語れるようにすることは当然だし、それに関しては妥協は許されない。さらに創作という観点だと、自分の中のイメージできる世界観を広げることは必須となる。そもそもの作者の世界観、人生観が乏しいと、魅力的な物語にはならないので、創作志望の人間は多くのジャンルに目を向けて、少しでも世界観を広げることを目指すわけで。

ハイラス「おお、ようやく多元宇宙の話にはつながりそうでござるな。創作論の話から、どうやって多元宇宙の話につなげるつもりであろう、とドキドキしながら聞いていたが」

ああ、そもそも、俺のしばしば書きがちな混沌めいた文章こそ、多元宇宙の実相だからな。
そう、多元宇宙とは、秩序だった通常宇宙(プライムプレーン)の外に広がる混沌めいた異空間を総称する、無限に広がる大空間のことなんだ。
俺が無秩序に書き散らす雑多な文章こそが、多元宇宙への入り口。
だからこそ、俺は時空魔術師にして言霊魔術師を名乗るわけで。

ハイラス「そこまで無理やり、強引に断言するでござるか」

フッ、これがWhite NOVAの生きる道。多元宇宙の海こそ、俺の海ってことで。


★そもそも世界って何?

ところで、ハイラスは「世界」とか「宇宙」といった言葉の意味を知っているか?  

ハイラス「言葉の意味でござるか? 正確な定義はともかく、何となくでよければ、世界とは地球という惑星の中のもっぱら人間が知覚認識できる部分。宇宙は、地球という惑星を含む、もっと広い銀河系や無数の星々に広がる果てしない大空間といったところではなかろうか。いや、このコアアース世界での常識として、付け焼き刃的に学んだことでござるが」

ああ、大体、そんな感じだな。
海底世界とか、ミクロの世界といったように人間(ないし他の知的生物、本記事では以下も「人間」をその意で扱う)の生活空間から離れたところもあるが、基本的に世界は人間が認識するなり、冒険の舞台になるなり、とにかく人間の観察を主体とした表現だな。
その物語の中の一般的な人々が生活する主舞台が通常世界で、普通とは異なる別の世界が異世界と言ったりする。

一方で、宇宙は人間の営みとはほぼ関係なく、無限に広がる大空間。よって、異宇宙という言い方はしないし、宇宙人という言葉は、それだけで異星人とほぼ同義で使われている。異世界人という言葉もあるように、現代SFやファンタジーでは、一つの星を一つの世界と同列に扱うこともできそうだ。
その意味で、世界の方が狭く、宇宙の方が広くて異質という感覚になりそうだし、「異世界の冒険」という表現だと地に足付いたイメージがあるのに対し、「別宇宙の冒険」という表現だと身一つでは困難で何らかの特殊装備が必要という感覚になる。

異世界はファンタジーの舞台で、別宇宙はSFというジャンル分けにも分類されそうだ。あまり異世界SFという言葉も聞かないので、念のためネットでも調べると、例えば1917年に出版されたエドガー・ライス・バローズの『火星のプリンセス』なんかは、異世界SFと分類する者もいて、この辺のファンタジーとSFの境界線も少々曖昧に感じる。まあ、火星が舞台ならSFだろうと単純に考えてもいいのだが、まだ宇宙開発技術が発展していない時代の火星観なので、異世界ファンタジー的な古代王朝の雰囲気が濃厚。要するに、火星という名前の異世界に転移した現代人(と言っても今から100年以上前の人間)の物語なわけで。
逆に、現代の21世紀において、異世界という言葉で特徴的なのは、オンラインゲームなどのヴァーチャル・リアリティーで構築された架空世界が主流となっており、またSF的な並行世界を舞台にした作品も増え、転移技術はSF的でありながら、世界設定そのものは中世ファンタジーであったり、現代と同レベルの文明だったり、近未来的であったり、単純にSFとファンタジーを区分けすることが困難になっている。

ともあれ、細かい定義づけは困難だが、TRPG的には、明確な地図が書けるのが世界で、フワフワしていて地図にするのが困難な別世界を宇宙と考えている。地図が用意されていれば探索することも可能だろうが、地図のない空間は、細かい探索もできない単なる言葉だけの背景に過ぎん、という考え方。
逆に、宇宙空間であっても、『トラベラー』のようにしっかりと星図が描かれてあって、恒星間の定期便なんかが運行しており、人類の生活圏が構築されていれば、それは世界と定義することもできる。
地図として認識できてこその世界というのは、世界地理や世界史を勉強してきた人間にとっては常識だと考える。自分自身、世界という言葉でイメージするのはまず世界地図だし。

ハイラス「地図であるか。確かに、その世界を把握するのに地図があれば分かりやすいでござるな」

ヨーロッパ人にとっての世界とは、20世紀初頭まではヨーロッパとほぼ同義。アメリカ大陸は新大陸、あるいは新世界とも呼ばれていたし、アジアやアフリカは辺境、オーストラリアは流刑地でしかない。文明世界と、その他、蛮族の住む異郷という認識だ。だから、ただのヨーロッパ大戦を世界大戦という呼称で呼んだわけで。もちろん、第2次世界大戦の方は、太平洋やアジア各国も舞台になって世界レベルに戦場が拡大していったわけだが。
つまり、21世紀の交通や通信が発達した現代と比べても、ほんの100年前は世界という認識が非常に狭かったと言えるだろう。毎日、部屋にいながらにして、世界のニュースが普通に見聞きできる現代日本人と同列に考えることがおかしいということになる。

ハイラス「確かに、田舎の人間だと、山一つ越えた先は異世界と考える者もありがちだったな。活動範囲の広い交易商人と、故郷の森から外に出たことのない部族の民だと、世界に対する認識の差に大きな違いがあることも納得できるというもの」

そうだな。
ちなみに語源をたどれば、世界は元々、仏教用語ということになる。サンスクリット語のローカ・ダートゥを漢語訳したものが世界、それが日本に伝わってきた形になる。
ローカは空間、ダートゥが界。仏教用語に使われると、「命ある者が存在し輪廻する空間で、一仏が教えを広める場所」という意味を持つそうだ。
それが中国に伝わり、世界と訳される。世は過去・現在・未来の三世を意味し、界は東西南北上下の空間を意味する。すなわち漢字の語源的には、世界は時空と同義になる。そう考えると、時空魔術師は世界魔術師と置き換えることもできて、パッと見、どっちのスケールが大きいのか分かりにくいが、世界魔術などという用語は一般的ではないので、俺は時空魔術師の呼称を使う方がいいだろう。
つまり、世界という言葉は、現在、普通に使われる空間的な概念よりも広い意味の言葉だが、物語世界という概念になる場合、例えば、昔の作品の世界、すなわち「竹取物語の世界」「ギリシャ神話の世界」「仮面ライダー龍騎の世界」などと考えるなら、それは同時にその物語の公開された時代背景をも内包するために時間的な概念にも関わることになる。「D&Dの世界」といえば、基本は中世ヨーロッパ風になるようにな。

ハイラス「東洋では、そう解釈されるのであろうな。では、西洋ではどうか」

西洋で、世界は一般的にワールドになるだろうが、古代ギリシャではコスモスと呼ばれていた。コスモスは宇宙を意味することもあるが、秩序という意味も含み、「美しい秩序を備えた世界、人の文明世界」ということになる。
その意味で、人間の知覚認識をキーワードにしたハイラスの考えは、間違っていないわけだ。知覚認識をビジュアルな形にしたものが地図であり、その地図を見ることによって、間接的に世界を見ることになる。そして、地図を丁寧に見て、空想の翼を広げることによって、現代人の我々は世界を意識することになるんだな。
もちろん、映像作品などによって、自分の知らない景色や異世界を視覚的に味わうこともできる時代だが、仮に景色や事件を見ても、その場所が我々のコアアースの、あるいは異世界ワールドの、どこの地点で、あるいはどの時代の出来事かを認識していなければ、世界観をしっかりと意識したことにはならない。

ハイラス「では、どうすればいいのでござるか」

その研鑽が、時空魔術の骨子とも言えるのだが、俺なりに思うところをまとめてみよう。


★私的・多元世界概論

まず、多元世界の空間的な認識だが、やはり、その世界の地図と照らし合わせて考えるのが基本だな。
「なるほど、ロードス島アレクラスト大陸の南にあるのか」とか確認してから、「ロードスの右上にアラニアがあって、そのさらに右上にザクソンの村がある。さらに上にはターバのマーファ神殿があって、物語はそこから始まる」って地理的位置関係を知ることで、ギムやパーンたちの旅の行程をたどる。異世界冒険物語は、主人公たちの旅路を地図でたどることによって世界を深く知ったことになるんだ。

次に、時間的な認識だが、歴史年表とか年号設定が道標になることが多いと思う。
例えば、「宇宙世紀0079」と聞けば最初のガンダム一年戦争の時代だし、これが「0087」になってZガンダムの時代、「0093」となれば逆襲のシャアの時代、「0123」となればF91、「0153」となればVガンダム宇宙世紀ファンは大雑把に分かって、あとはその隙間の穴埋めで物語がいろいろ作られることになる。
世界観を変えたければ、「未来世紀」のGガンダムとか、「アフターコロニー(AC)」のガンダムW、「コズミック・イラ」のSEED系と暦そのものを新しく設定する。面白いのはガンダムOOの世界で、「西暦2307年」というちょうど我々の時代と同じ暦の放送当時300年後という世界観で、リアルに寄せながら作っている。

元々、ガンダムの物語は異世界ではなくて、70年代当時の極力リアルに構築された現実の近未来世界を想像して作られたわけだし、当時のSFロボットアニメは荒唐無稽であっても、「一応、現実の延長線上にある世界観で、もしもそこに宇宙人や怪ロボットが侵攻してきたら、どうやって迎え撃つ?」的な紋切り型の物語世界が主流だった。
それが80年代から「我々の住む世界とは異なるファンタジー世界の物語や、異星や異なる宇宙を舞台とした物語」が構築されるようになり(その端緒は、70年代後半の銀河鉄道999などの松本零士スペースオペラ宇宙観だと考えるが今は割愛)、その辺りから「架空世界の地理や歴史背景などの設定資料」なんかも公表されるようになり、80年代半ば以降になるとRPGの影響もあって、一気に架空世界ブームが花開くわけだ。
90年代になると、ガンダムも多元世界の概念を取り入れるようになり、それはウルトラマンの方でも、これまでのウルトラ兄弟とは異なる世界観のティガ以降の作品を復活させて、平成ライダーにも受け継がれる。
それがまた世紀をまたいで、2000年代の後半になると、元の世界観に回帰したり、複数に分かれた各世界の統合という形になっていくのが特撮ジャンルの流れだが、それに先鞭を付けたのが、実は99年のターンAガンダムになるのかな。まあ、黒歴史という言葉で既存のガンダム世界を統合させただけで、全てのガンダムが一堂に集う的な作品ではないのだが、その辺はゲームで普通にやっていたからな。公式がその辺の統合を行うようになったのは、プラモデルという切り口を見つけた2010年のガンプラビルダーズから、ということになる。
以上が、年代順にコアアースの日本のサブカルチャーにおける一面的な多元世界の概要になるかな。

今回はD&Dとはあまり関係ない話になったが、俺が興味を持っている一部の物語世界の「多元世界観の成立の過程」をざっと考えてみたわけで。
以上を大雑把にまとめると、70年代はリアル世界の延長としてのSF未来観、80年代は異世界という概念を取り入れ、90年代はゲームを含めた世界観の拡張と多元世界の端緒、21世紀のゼロ年代は多元世界を広げた末の統合化、そして現在の10年代はクロスオーバー、コラボによる世界観飛び越えが容易に行われる時代となっている。
近年は80年代ブームだと俺は認識しているので、「異世界」という概念が初めて日本で浸透した時代を中心に振り返ってみようと思っている。

また、仮に異なる世界観のヒーローやキャラクターが共演する場合、どちらが強いかを論じるのはお子様的だが、それぞれの世界のどういう属性をどう描くかが通の見るべき点だと考える。
この点でナイスなのは、同じ世界観を持ちながら、異なるヒーロー設定のキカイダーキカイダー01。後者は太陽電池で起動するので、夜には極端に能力が落ちるという弱点を抱えている。そこを突いて、敵のハカイダー軍団は太陽を隠す暗雲を召喚して、01を追い詰めた。そこへ助けに現れたのが01の弟にして前作主人公のキカイダー。戦闘能力的には01の方が上だけど、キカイダーは夜でも普通に行動できるので、敵の暗雲を振り払い、逆転への糸口をつかんだ。しかし、キカイダーの弱点はギルの笛で不完全な良心回路を苦しめられること。当然、ギルハカイダーキカイダーに対して、その弱点を突いてくるのだが、今度は完全な良心回路を持つ01が弟を助ける。
こんな流れで要するに、互いの弱点と長所などの特徴を、うまく物語展開の中に取り入れていることが面白いんだな。クロスオーバーの醍醐味はここにあると考えるので、そういう設定をうまく踏まえた創り手によるコラボは拍手ものだし、単に頭数を揃えてみました的な共演はがっかりさせられる。

これはゲームでも同じで、クロスオーバーや世界観飛び越えを実現した場合でも、そのキャラの元の世界や物語を踏まえたセリフや能力が描かれており、他の世界のキャラがそれを見て驚いたりすると、ああ、分かっているな、と感じる。端的な例が、「流派・東方不敗の武闘家が、素手で巨大ロボを倒して、周囲の人間が驚くこと」。
90年代のスパロボは、そういう世界観のぶつかり合いが描かれて刺激的だったんだが、近年は多元世界が当たり前になったからか、変にキャラが物分かりが良くなって、あっさり異世界キャラの奇怪な言動を受け入れがちで、「ああ、そういう世界の住人なのね。だったら騒いでも失礼だし仕方ないか。そういう世界として素直に受け入れてあげましょう。それよりも今は物語を進めないと」的に妙な社交辞令的に流されると、つまらないな、と思う。
やはり、異世界のキャラが出会った時に、生じるのはカルチャーショックであるべきで、もちろん話をまとめる物分かりのいいキャラはいて然るべきなんだが、物語として面白いのは、「そんな世界はあり得ないだろう。どうなってるんだよ、こいつらの世界は。こいつらの物の考え方は理解できん」と一通り騒ぐ、素直だけど頭の悪い連中。それが何とか理解に至るなり、頭を抱えたまま思考放棄して、理解はできんが悪い奴ではないから共闘だけはしてやるぜ的に納得するなり、そういうコミュニケーションの妙が描かれているか、だと思う。
具体的には、ビルドの昨年末映画の万丈龍我だな。年末映画の時には分かっていなかったことが、春には理解して、異世界ライダーのヒーロー魂を引き継ぐ発言を口にした点でも、ドラマがつながっていて、おお、万丈の奴も成長したじゃねえか、と感じ入ったりも。
そういうドラマツルギーを無視して、「異世界のキャラが出会いました。協力して強敵を撃退しました。まさに夢のコラボなんで感じ入ってね」的なルーティンだと、何だか浅いな、と感じる次第。

ハイラス「うーん、途中までは頑張って付いて行けたのだが、最終的な結論として言わせてもらうと、さっぱり分からんでござる」

うん、お前は異世界から来た人だから仕方ないよね。
次は、異世界キャラのお前にも分かりやすいように、もう少しD&D寄り、TRPG寄りに整理した話にする予定。
今回は、多元世界ということで、無軌道に話を広げすぎたということで、いつもにも増して、多ジャンルに話題を広げてしまったな。
要は、最近流行りの多元世界をきちんと語るには、切り口が多すぎて、なかなか困難だってことだ。

D&Dの場合は、その原点的なところがあるので、そこだけに絞るならシンプルなんだけど、それだけだと現在の視点では少しつまらないと感じたわけで、先に広がった部分を概括してからという意図だが、若干フワフワした内容かな。
まあ、地に足ついた世界よりも、宇宙空間な感じ。なお、宇宙の字義は、「宇が空間、宙が時間を表して、合わせて時空」という説と、「宇が天、宙が地を表して、合わせて天地」という説の両方があって、そこも多義的だが、総じてコスモス的(秩序、人間の知覚観測可能)な『世界』と、カオス(混沌、人間の知覚観測困難)も内包する広大な『宇宙』とに区分するのが妥当かな、と。
俺の文章は、やはり秩序立った世界よりは宇宙寄りだな、と自嘲しつつ。(完)