ウルトロピカルな⭐️GT(ゲーム&トレジャー)島宇宙

南の島と上空の宇宙宮殿を舞台にTRPGや特撮ヒーローなどのおしゃべりブログ。今はFFゲームブックの攻略や懐古および新作情報や私的研鑽メイン。思い出したようにD&Dに触れたりも。

パラディン(聖戦士)……から始まるFF・ドラクエ話

@聖戦士とか聖闘士とか

 

アスト「今回はD&Dのパラディンの話を中心に、聖戦士や聖闘士というものをいろいろ振り返ってみよう、と思う」

リバT『クラシックD&Dのファイター上級職、パラディンの話は、以前にグランドマスターが語っておられました。こちらを参照

アスト「緑箱コンパニオンルールにおける追加ルールで、ローフルの戦士がパラディン、カオティックな性格の戦士がアベンジャー、それ以外に城を築いて領主になった戦士がロード、定住生活を求めない自由な放浪生活を続けたい戦士がナイトの道を選べるんだったな」 

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ダイアンナ「ええと、正義の神に仕えるのがパラディン。邪神に仕える暗黒騎士がアベンジャー。善悪関係なく城持ち君主となったのがロード。城は持たないけど、どこかの君主に仕えて下命を受ける形で冒険を続けるのがナイトといったところか」

アスト「ああ。もちろん、ナイトにすらならず、ただの自由な冒険者生活を続けることも可能だけど、その場合、コンバットオプションという上級戦技が使えない。コンバットオプションは、領主や騎士の世界で伝授される武芸なので、そこらの野良戦士には扱えないんだ」

ダイアンナ「じゃあ、自由戦士は強くなれないとでも?」

アスト「その辺はDMとの相談次第ってことだろう。元騎士というキャラが師匠になってくれて、武芸を教えてくれた後で、『旧友の領主の娘を助けてやってくれ』と若き戦士に言い遺すとか、元騎士だった勇者が家庭教師になって田舎の少年を導いてくれるとか、正式に騎士認定はされていないけど、領主や騎士の知り合いと懇意になる手段はTRPGでは普通にあるだろうしな。まあ、戦士だけどモンスター退治には興味なくて、領民を脅かすような山賊プレイとか、押し込み強盗ばかりをやってて、どう見ても荒くれ悪党でしかないロールプレイを続けていれば別だけど」

ダイアンナ「いや、その場合でも、山賊の頭が元騎士だったとか、押し込み強盗の間に伝わる武芸を教えてもらったとか、いろいろやりようはあるんじゃないか?」

アスト「押し込み強盗の間に伝わる武芸って何だよ?」

リバT『そもそも、TRPGは自由だと言っても、押し込み強盗プレイを喜んでするDMとプレイヤーの卓は、何だかいやですね。それなら、まだT&Tでモンスタープレイをしたり、ソード・ワールドで蛮族プレイをしたり、違うシステムをプレイすることを推奨します』

アスト「大体、パラディンの話をしようという記事で、押し込み強盗について考えて、どうするんだよ?」

ダイアンナ「いや、悪い商人しか狙わない正義の押し込み強盗がいてもいいじゃないか?」

アスト「悪の帝国に反旗を翻した海賊ヒーローが正義に与したケースはあるが、押し込み強盗が正義を名乗るのはどうか、と思うぞ。海賊戦隊は成立しても、強盗戦隊は成立しない」

ダイアンナ「快盗戦隊はあるのにな」

アスト「とにかく、邪悪ルートを辿った戦士の話はパスして、完全無欠の絶対正義なパラディンについて語るのが、今回からの記事テーマだ。押し込み強盗の話は、また盗賊系のキャラの話をする時にでもとっておけ」

 

@聖戦士という用語


アスト「ところで、パラディンを聖戦士と訳すのが定番なんだが、今、聖戦士で検索すると、ほとんどが『聖戦士ダンバイン』と出て来るんだな」

リバT『海と大地の間にあるという異世界バイストンウェルに召喚された地上人が、オーラバトラーという機動兵器を駆る聖戦士として、異世界と地上の平和のために戦うファンタジーロボットアニメですね。1983年という早い時期に、メカロボとファンタジー異世界を組み合わせた先駆的な作品として高い評価を受けています』

アスト「作者の富野さんによれば、75年の『勇者ライディーン』の頃から、異世界を舞台にしたロボバトルを構想していたそうだが、ライディーンの後半が監督交代によって企画が実現せずに、まだ時期尚早ということもあって、8年間温めてブラッシュアップしたのがダンバインらしい、と最近知った」

ダイアンナ「すると、勇者→聖戦士という系譜があるわけか」

アスト「ライディーンの方は、失われた大陸のムー文明を背景にしたオカルトロボで、神と悪魔の戦いをテーマにしていて、『神に仕える聖戦士』という意味では、そちらの方がパラディンっぽいとも言える」

リバT『確かに、ダンバインの方は神という概念はありませんからね』

アスト「神に仕える戦士という意味では、86年(原作マンガの連載開始は85年末)の『聖闘士星矢』がギリシャ神話を土台に、擬人化された女神を守る鎧着用の聖闘士というイメージを見せてくれ、オカルトや宗教アレルギーの強かった当時の日本のフィクション世界に、神話や宗教的な要素がメジャーな題材になる下地を構築してくれた」

リバT『86年はドラクエ元年でもありますから、その辺から神々や魔物という存在がフィクションの定番として、違和感なく受け入れられるようになっていくのですね』

アスト「もちろん、それ以前から神々や悪魔を扱った作品(デビルマンとか)はあるにはあったが、どうもダーク寄りというか、カルト的というか世間一般で大手を振って語れるまでには至らないアングラ色の強いテーマだったんだ。だけど、星矢が『お姫さまを守るように女神さまを守る』というイメージを定着させたり、ドラクエが『勇者』という単語で聖戦士のイメージ構築に寄与したり、擬人化された神や、神に仕える選ばれた戦士という要素をメジャー化した功績は大きいな、と」

ダイアンナ「それ以前は、神という存在が重く、決して気軽に扱えるものではなかったのが、明るく、そして軽くなっていく流れでもあるな」

アスト「80年代だと、神さまを茶化して遊ぶというのは、ドリフやひょうきん族のコントで見られたりもしたが、物語で扱うには慎重を要する存在。だけど、80年代から90年代にかけて神話や宗教を含むファンタジーがフィクションの定番になっていくと、神の擬人化、美形化や萌えキャラ化が進行し、信仰とは別次元で愛でる対象になったり、ドジっ娘な女神とか、堕女神(ダメ神)なんて呼称も悪意なく、むしろ親密感を示すキャラ属性として扱われるようになる。そのことで、神の威厳が失墜したと嘆く層もあるがな」

リバT『すると、神という題材を扱うに際しては、いろいろと気をつけないといけませんね』

アスト「ああ。少なくとも、その世界における神の威厳がどの程度か、作者の中では決めておかないといけない。受肉しているのか、それとも霊的存在なのか。一神教で絶対的存在なのか、多神教で性格は神ごとにまちまちなのか。一神教の場合は、信徒以外の人類に親和的なのか、それとも排他的かつ敵対的なのか。
「もちろん、物語の神が単に『回復などの信仰呪文を与えてくれるだけの存在』『教会などの施設で、治療や蘇生などの奇跡を授けてくれるだけの背景要素』でしかないのなら、登場しない事物の設定を細かく決めておく必要はないが(それでも決めておきたいのが設定マニアというものだし、決まっていない部分を質問されたら、考えてみる姿勢を見せるぐらいがクリエイターというもの。まあ、考えた結果、今すぐ決める必要はないと判断して後に必要になった場合までの宿題にするケースもあり)、仮にも神との対立や、宗教組織との対決がテーマになる作品であれば、その辺が勉強不足で答えられないようではいけないだろうな」

ダイアンナ「他のフィクションを分析する際にも、その世界の信仰概念を理解せずに、現実の特定宗派のイメージだけから批判するのでは、フィクションの鑑賞能力に欠けているということかな」

アスト「TRPGなら、一神教というのは甚だ扱いにくくなるので(神官系のキャライメージが限定的になり過ぎるし、現実宗教と物語設定の不協和が露骨に出てしまい、物語として楽しめなくなる)、幅を広げるために多神教を基軸にしつつ、『創造神的な神々の王と、各種族や職業に加護を与える大神、またGMが後付け設定できる小神など』を複数用意することが定番だ」

ダイアンナ「小説だと?」

アスト「結局、作者が何をテーマにし、神をどう扱いたいか、方針がはっきりしているかどうかだな。敵対するラスボス候補なのか、主役を加護する存在なのか。封印されているのか、目覚めて活動しているのか。例えば現実に近い設定なら、神は封印されていて、一部の信仰者のみが封印解放の儀式を知っていたり、限られた範囲での神力の行使(それが呪文の形だったり、アイテム作成および使用だったり)ができたりするものの、世間一般ではそんな力が存在することは知られていないのが普通。何も知らない立場の主人公が、『神さまだって? そんなバカな話が信じられると思うか!』と反応するのが定番だろうな」

リバT『だけど、近年はオタク系の知識を持つ主人公が多くて、「へえ、まるでゲームみたいだな。面白そうだ。もっと詳しい話を聞かせてくれ」とか、素直に受け入れることも多いですね』

アスト「そういう物語を好んで読む読者が感情移入できるのって、何も知らない、信じない一般人じゃなくて、好奇心旺盛で世界の謎を知りたがる気質だろうからな」

ダイアンナ「あるいは、『神さまだって? よく分からないが、敵なら倒す。ボコボコに殴ってやって、それでもまだ話せるようなら、本当に神さまだろう。話ぐらいは聞いてやってもいいぞ。俺に勝てるならな』と豪快に振る舞うバカ主人公とかが受けそうだ」

アスト「本当に神さまだったら、どうするんだ?」

ダイアンナ「拳で殴り合って、互いの強さを理解して、意気投合する。それが少年マンガの王道だろう?」

アスト「いつの時代の話をしているんだよ!? まあ、嫌いじゃないが」

リバT『何が正義かよく分からないから、とりあえず剣を交える。令和の時代のライダーでもやっていることですよね』

アスト「あいつらはあくまで剣士であって、D&D的な意味での聖戦士たり得ないな。聖戦士だったら、邪悪感知の特殊能力を持つから、組織の中の裏切り者が誰か感知できるはずだし」

ダイアンナ「それなら、光の剣士のユーリが聖戦士っぽくないか? 光属性だし、回復呪文も使えるし、浮世離れしているけど正義という概念に親和的だし、いかにも聖戦士って感じなんだが」



アスト「胸のXマークが十字マークなら、完全に聖戦士認定できるキャラかもな」


@FFのパラディン(光と闇の輪舞)


アスト「さて、聖戦士という用語から、神話や宗教との関係性にまで話が展開したが、聖戦士が正義ということに異論はないだろう。もしもあるとしたら、それは正義という概念が立場によって変わり得るからであって、倒すべき邪悪と、守るべき正義が明確に設定されている世界では、簡単にブレないのが聖戦士たる所以だ」

ダイアンナ「じゃあ、裏切りの聖戦士は?」

アスト「神さまに与えられた特殊能力を全て失うから、ただの悪堕ちした戦士として扱われる。元聖戦士が、その力を反転させて、魔戦士(アベンジャー)になったりはしない。まあ、DMが神の代わりに、別の邪神や魔神が後援者になってくれるように設定したなら別だろうが」

リバT『だけど、1991年のSFCゲーム「ファイナルファンタジー4」では、暗黒騎士だった主人公が転職して聖騎士パラディンになるんですね』

アスト「オレがD&D以外で、初めてパラディンという言葉を見たのはその作品だったな。それ以前は、僧侶魔法を使える戦士という意味でウィザードリィのロード(君主)や、ドラクエの勇者、他に白騎士とかホーリーナイトという呼称だったり、HP制のゲームなんかでは主人公(ヒーロー)はたいてい回復呪文を使えることが多いので、実質、選ばれし聖戦士あるいは勇者みたいなものだったが、FFシリーズの主人公『光の戦士』にパラディンの称号が与えられたのはFF4が初めてと思う」

ダイアンナ「FF世界に、神はいるのか?」

アスト「作品にもよるが、基本的にあの世界で神と扱われているのは、幻獣神バハムートみたいな召喚獣で、信仰としては『光の力』と『闇の力』と、どちらにとっても脅威となる『虚無の力』に分類される。光と闇は対になっているが、どちらも自然法則で、偏らないバランスが求められる一方で、そのバランスが極端に崩れた場合に、世界が崩壊して無となる物語が多い。
「他のゲームでは、僧侶とか神官系に分類される呪文がFFだと白魔道士の呪文という扱いで、それと対を為す黒魔道士も別に邪悪扱いされているわけではなく、治癒・守護系の白魔法と、攻撃系の黒魔法に大別されつつも、それらは善悪という概念とは無縁だ。FFの世界では、白と黒、光と闇のどちらも世界を構成する力という扱いというわけだ」

ダイアンナ「だったら、暗黒騎士は悪ではない?」

アスト「FF4では、暗黒剣を扱う闘法を取得した騎士で、自らの生命エネルギーを削って闇の波動を放つことで魔物を倒す騎士。ダイ大の暗黒闘気にも近いイメージがあるし、FFで最も闇=邪悪という物語世界観が描かれているな。闇堕ちした主人公が光を取り戻す物語とも考えられるが、一方で前後のFF3や5では、闇が光を補完する要素であることが示されている」

ダイアンナ「闇が光を補完……ということは、両方の力を合わせないと勝てない敵が出てくるんだな」

アスト「その両作には、多種類の職業を次々と転職して攻略を進めるジョブチェンジシステムが採用されていて、90年のFF3では『暗黒剣を使う魔剣士』というジョブが設定されている。この作品での暗黒剣は、西洋の剣とは違う日本の刀剣の呼称になっていて、普通の剣よりも切れ味が鋭く、暗黒属性の魔物のコアを断つことで、分裂再生を防ぐような特殊能力を持っている。イメージとしては、ウィザードリィの忍者みたいな闇闘法だと思うし、戦士系最強職も全ての武具を使いこなす忍者とされている(リメイク版では改変されたが)」

リバT『ジョブチェンジの流れだと、戦士→ナイト→竜騎士→魔剣士→忍者という転職ルートが戦士系の一つの定番と言えますね』

アスト「まあ、格闘系のモンクとか、斧やハンマーを使うバイキングとか定番以外のジョブに寄り道するのも自由だけど、それぞれのジョブに光属性や闇属性の数値が設定されていて、ジョブチェンジし易さの目安になったりしているが、この世界では闇だから悪だという概念は成立しない。最終決戦では、主人公たち光の戦士は、異世界の闇の戦士の協力を受けて、世界を無に帰そうとする『暗闇の雲』を倒そうとするわけだ」

ダイアンナ「ラスボスが闇属性? それでも闇の戦士が協力してくれるのか?」

アスト「ややこしいが、そうなんだ。ラスボスは闇の加護に守られているので、光の力が届かない。その闇の加護を、闇の戦士たちが取り除くことで力を弱めたのを、主人公たちが撃退する流れ。終盤で闇の世界のダーククリスタルと闇の戦士という設定が次々と現れ、ドラマ的には一気にラスボス戦までノーセーブで進むので、じっくり味わう間もなく、『え、闇の戦士って何者? 出て来たと思ったら、ラスボスに突撃して消えちゃったよ。まあ、いいか、これでラスボスを倒せるようになったんだな。よし、長かった攻略もこれで終わりだ。戦士系(忍者2人)は手裏剣連発して、術師系(賢者2人)はケアルガで集団回復を連発していたら、余裕で勝てるな。よし、終わったあ』という流れ。闇の戦士について深く考える余韻もなかったのが、多くのプレイヤーじゃないだろうか?」

ダイアンナ「う~ん、闇の力を借りて、巨悪を倒すのか」

アスト「まあ、前作のFF2でも、光の戦士フリオニールと、ヒロインの兄にしてダークナイト(暗黒騎士)のレオンハルトが物語のスタートで生き別れになった後、対立した挙句、巨悪の皇帝の脅威の前に共闘して世界を守る物語が描かれている。旧世紀のFF世界では、裏切りの騎士や、光と闇の共闘ドラマが定番だったと言えるな。まあ、スターウォーズの影響が大きいとも言われているが」

リバT『そして、ダークナイトや、暗黒剣を使う魔剣士や、闇の戦士のイメージが組み合わさって、FF4の主人公セシルに結実するのですね』

アスト「そちらは、主人公が最初から闇堕ちして、しかも世界征服を企む悪のバロン王国の飛空艇団長という肩書きで、物語的には悪役のポジションでスタートする。外国の街で話すキャラの多くが、『ヒエー、バロンの暗黒騎士だ。命だけはお助けを~』とか『お前みたいな悪党の話など誰が聞くか!』とか、これまで光の戦士としてヒーロー気分だったシリーズのファンの内心に関わらず、悪役の気持ちを十分満喫させてくれる。これで街の住人を虐殺するプレイができて、暗黒騎士ルートで突き進むことができれば画期的だったんだが、まあ闇属性を毛嫌いする主人公は、己の闇の分身との心の戦いに勝利することで、晴れて聖騎士パラディンに転生するわけだな。パラディンになると、街の人の態度も手のひらを返すようにきれいに変わって、正義のヒーロー気分に返り咲く。うん、やっぱり闇より光だよな、という気分になるわけだ」

ダイアンナ「まるで、あたしたちの立場そのままじゃないか」

アスト「そうかもな。しかし、この作品には、もう2人、闇堕ちした騎士が登場する」

ダイアンナ「闇堕ちだらけだな」

アスト「一人は、主人公の親友にして裏切りの竜騎士カイン。こいつはヒロインの白魔道士ローザに惚れていたんだけど、彼女がセシルに惹かれていたので嫉妬して、悪に洗脳されたのをこれ幸いとばかりに親友を裏切ってローザを連れ去ったものの、振り向いてもらえないばかりか、彼女を助けたセシルとのラブラブモードを目の前で見せつけられ、屈辱を味わって再度の裏切りを図る始末」

ダイアンナ「2度も裏切るのか!?」

アスト「竜騎士は前作の3からジャンプという技を持ち、演出が格好いいのと、敵の集団攻撃を回避しやすい便利さがあって人気ジョブの一つなんだが、もうカインという名前が悪いのか、痴情のもつれで再度の裏切りを重ねて、仲間の忍者に『また裏切らないといいんだけどな』と不信の目で見られて、『その時は遠慮なく斬れ!』と切り返すなど、いちいちセリフが印象深い。三角関係のややこしい恋愛ドラマを愛するファンの同情票もあって、後年作られた続編では、セシルの息子セオドアの師匠格として、また自身の心の弱さと対決して竜騎士から聖竜騎士に転生するほどの成長を遂げたりもする。続編では、セシルの方が敵に操られて闇堕ちするのを息子やかつてのライバルに助けられるので、これでカインの株も爆上げになったわけだな」

リバT『その時期のゲーム物語は、戦隊6人めのドラマ作りにも影響しているようですね』

アスト「確かに、戦隊初の6人めであるドラゴンレンジャーは、主人公の兄でもあるし、竜騎士でもあるし、1992年の作品だし、FF4の影響が大きいというか、相当参考にしたと考えられるな」


ダイアンナ「すると、もう一人の闇堕ち騎士は主人公の兄ということか」

アスト「ああ。悪の黒騎士ゴルベーザが、まるで暗黒の鬼将軍ガルザのように、中盤から終盤まで主人公の前に立ちはだかるが、実は主人公の兄で邪悪なほぼラスボスのゼムスの闇波動で操られていたことが判明する(なお、ラスボスはゼムスが虚無の力で異形進化したゼロムス)。もう、このゴルベーザは登場するたびに、パイプオルガン調の独自のテーマ曲を流しながら、やたらと厳かに格好良く出現して、FFの悪役勢でも7のセフィロスと並んで、格好いいキャラだと思う。考えてみれば、今年はFF4の30周年でもあるんだな。いっそのことアニメ化しないだろうか」

リバT『FFのアニメ化は5と7を題材にした作品が存在しますが、今さら4ですか?』

アスト「いや、まあ、単に30周年記念ということで思いつきを口にしただけだ。冷静に考えると、懐古ファン以外の需要がなさそうだし、ダイ大だけでも十分に堪能できている。とにかく、ゴルベーザもまた続編で贖罪の戦いをする姿が描かれていて、光に返り咲いたわけだな。つまり、闇堕ちして光に返り咲いたキャラは強い、と」

リバT『完全に自画自賛モードですね。もはや、パラディンの話がどうでもよくなっていませんか?』

アスト「まあ、FFでパラディンが登場するのは、4だけだからな。5ではナイトに白魔法のアビリティを付けることで擬似的にパラディンみたいな能力になれたが、5の場合は3や4ほど光や闇の要素は少なくなり(闇属性の追加ジョブであるネクロマンサーを除く)、暗黒魔道士エクスデスもやはり無の力(エヌオーという存在が持つ)を求めるようになる。
「また、これ以降のFFは世界の技術レベルが産業革命以降の機械文明、銃器文明が主流になり、光と闇の対決劇よりも、エコ要素、自然を破壊してエネルギーの過剰供給に走ることで、人々と世界の平和が脅かされる背景が強く描かれるようになり、文明の光と非文明の闇が善悪逆転したり、主人公キャラの職業が騎士系よりも盗賊系軽戦士が主流になる作品が増えたりで、作品シリーズの傾向が大きく変わっていくので、パラディンの話とはつながりにくい。よって、ここで一度、話を締めくくる方がいいだろう」

ダイアンナ「聖戦士パラディンが存在するためには、聖と邪、神と魔、光と闇の対立構造が明確な世界観が必要で、勧善懲悪の二極構造とは異なる多様な正義観の存在し得る物語では、成立しにくいキャラということになる、と」

アスト「そこで、ドラクエに移るわけだ」


@ドラクエの勇者


アスト「ドラクエの主人公・勇者は、ほぼ大体が神に祝福されたパラディンである(除く2と5)という前提で話を始めよう」

ダイアンナ「何で2と5を除くんだ?」

アスト「ドラクエ2(1987)の主人公は、歴代ドラクエシリーズで唯一、魔法が全く使えない脳筋戦士だからな。パーティーを組む3人の王子王女は1の主人公の子孫に当たるんだが、勇者としての能力が分散してしまったようで、力のローレシア、技のサマルトリア、心のムーンブルクというように、きれいに役割分担されてしまった。一番勇者っぽいバランス型がナンバー2のサマルトリア王子なんだが、こいつは攻撃力が足りなくて、しかも打たれ弱く、便利は便利なんだが、いまいち頼りにならないキャラだからな。まあ、3の賢者みたいな属性、あるいは4の神官戦士クリフトみたいな能力だと思うが、3人パーティーの2番手を務めるには力不足なことが否めない。まあ、2は3人揃って1人前ってことで、『ドラクエ2ドラクエZみたいなもの』と考えるべきか」

リバT『つまり、3分の1人前な勇者ということですね』

アスト「で、勇者1人旅のドラクエ1(1986)だが、この最初の作品には神という存在が設定されていない。勇者と竜王の対立劇だが、この竜王が実は『竜の神さまの子孫が悪堕ちした姿』だと後年、判明するわけだな。また勇者自身が悪堕ちした姿が、派生作のドラクエビルダーズ(2016)で語られ、光と闇の境界線が昔よりも曖昧なのが21世紀の混迷した状況と言えよう」

リバT『そう言えば、続編のビルダーズ2(2018)では、破壊神シドーの転生体みたいな少年が主人公ビルダーの仲間という設定みたいですが』

ダイアンナ「つまり、闇の神さまが光に返り咲いたのか?」

アスト「さあな。ビルダーズ2は未プレイなんだ。とにかく、最初のドラクエ1からドラクエ3(1988)はロト3部作、あるいはアレフガルド3部作とも呼ばれ、この世界の神に相当するのは、教会や仲間の僧侶が信仰する『名もなき大神』と、ゾーマに封じられている『大地の精霊ルビス』、そして竜王の母である『竜の女王』の3種が考えられる。神さまという存在は2の施設である教会で初めて描かれ、またラスボスの破壊神シドーとか大神官ハーゴンという設定から、大地の神に祝福された伝説の勇者の子孫が邪神を倒す物語がドラクエ2ということになる」

リバT『すると1は、伝説の勇者の子孫が闇堕ちした竜神の子を倒す物語ですね』

アスト「そして、勇者ロトその人である3の主人公勇者が、神をも脅かす大魔王ゾーマを倒して、アレフガルドの世界を闇から解放するのが3の物語というわけだ。この勇者は、上の世界からアレフガルドに降臨したわけで、つまりアレフガルドを地上界とすれば、最初の世界地図モチーフの世界は正に天上界と言えるわけで、ドラクエ3は『天から降臨した聖なる勇者が、大地の精霊を解放し、竜の女王の死を見届け、恐るべき大魔王を倒し、世界に光をもたらして伝説となった』わけだな」

ダイアンナ「FFよりも明確に、神に祝福された光の勇者が闇の竜王や破壊神、大魔王を倒す勧善懲悪物語が描かれたということか」

アスト「ああ。ドラクエは『勇者が魔王を倒すジャパニーズファンタジーの王道』を築き上げた。一方で、FFは『クリスタルという象徴アイテム』『世界征服を企む悪の帝国の軍事侵攻とレジスタンス』『飛空艇』『召喚魔法』『光と闇の錯綜するドラマ』などを定着させて、一部はドラクエにも逆輸入されたりもしている」

ダイアンナ「互いの影響の与え合いを研究するのが面白そうだな」

アスト「だろうな。異文化の相互交流を研究する視点から見ると、何かが何かをパクったと見なして、見下して、それで終わりというのは、研究の入り口で思考停止しているに過ぎない。そこからどう発展したかとか、どの要素と要素が効果的に結びついたか、あるいは噛み合わせが悪いのかとか、いろいろ考えを発展させる余地があるし、そういうことを日頃から考えないと、自分の作品にどんな要素を取り入れるのが効果的かを判断することもできない。
「クリエイターって、他の作品の面白い点をしっかり研究して自分の物に上手く取り込めるか、あるいはアレンジするかも考えて商売するわけで、もちろん、取り込んだ結果がチグハグでうまく機能しなかったり、自分の本来の作風にフィットしなかったり、技量不足で劣化コピーにしかならなかったり、いろいろと失敗することもあるけど、そこからの試行錯誤の過程や発展史を研究するのが比較研究の道じゃないかな、とNOVAなら言いそうだ」

リバT『ともかく、ドラクエが先に光の勇者と闇の魔王の対立劇を提示したので、FFが変化球を後から投げ始めた。すると、それを受けてドラクエが新しいアイデアを示し返す。それがドラクエエニックスと、FFのスクウェアが別会社だった時の良きライバル関係だったんですね』

アスト「ドラクエは4から6にかけて、新たに天空3部作を構築する。そこでの共通キーワードは天空城と神に相当するマスタードラゴンの存在だ。3では曖昧な示唆でしかなかった竜の女王というキャラが、はっきり竜の神として明示され、1から後が曖昧だったドラゴンクエストというタイトルにもマスタードラゴンの統べる天空城を見つけ出し、世界の危機を解決するための助力を要請する』という物語構造上の意味合いを持たせ、それが勇者や仲間の出自にも関わるという点で、神に導かれた使徒が邪悪を倒す物語として、一貫性を帯びることになったわけだ」

ダイアンナ「そう聞くと、確かに勇者=聖戦士パラディンという意見にも頷けるものがあるな」

アスト「とりわけドラクエ4(1990)の勇者が一番美形で、光の勇者らしいとオレは考えるな。と言うのも、闇側の勇者とも言うべきライバルのデスピサロがアンチテーゼとして存在するから。勇者という職業名が明確に主人公と結び付けられるのは3と4と11の3作だが、3が大地の精霊に祝福された勇者なら、4は空とつながりが深く、この辺で勇者といえば『ライデインベホマズン』とかある程度の定型化が行われ、それがダイ大(原作は89年~96年。旧アニメは91年~92年)の勇者ダイのイメージ構築にもつながっている」

ダイアンナ「おお、その辺でダイ大につなげて来るとは、一気に話が懐古話から今につながったな」

アスト「ついでに1991年といえば、日本語版のAD&D(第2版)が翻訳出版された年で、本来ならこの記事はそのルールのパラディンの格好良さを語る記事のはずだったんだが、ずいぶん寄り道して戻って来れなくなったものだ」

ダイアンナ「ここから、AD&Dに軌道修正すれば、長い前置きから『予定どおり』と称して本題に入るダディー流になるんだがな」

アスト「何でオレがNOVAなんかに合わせないといけないんだよ。オレはオレで我が道を貫くぜ。ここまでドラクエの話を語ったなら、この後もドラクエで突き進む!」


@天空シリーズの勇者とパラディン


アスト「ダイ大の旧アニメはドラクエ5(92年)の発売直前に終了したりする。『このタイミングで終わらせるとは、バカか、TBSは!?』と当時は思ったもんだが、その時代はまだゲーム文化というものが今ほど浸透しておらず、決定権を持つ重役にダイ大の可能性が分かっていなかったんだろうな。ドラクエ5との相乗効果でもっと盛り上がるはずだったのに残念でならん……と思って、30年待ったファンも少なからずいたろう」

ダイアンナ「アスト、お前は一体、何歳なんだ!?」

アスト「フッ、元時空快盗に年など関係ない。ただ50歳間近のNOVAの気分を推し量っただけだ」

リバT『ダイ大はドラクエ3や4の影響を強く受けた作品ですが、この後のバラン編は父子のドラマということで、ドラクエ5に通じる物語要素がありますね』

アスト「バランは、主人公の父親として3のオルテガと5のパパスの要素を持ちつつ、闇に堕ちた竜の騎士(勇者)として1の竜王や4のデスピサロに通じるものがある魅力的なキャラだからな」

ダイアンナ「だけど、5の主人公は勇者じゃないって、さっき言ってたよなあ」

アスト「ああ、勇者は主人公の息子だからな。主人公は国王パパスの息子であり、自らも王になる。また、母親は魔界の門を開くことができ、またモンスターの悪意を浄化できる聖力(魔に通じた力とも言われる)を持つエルヘブンの民の巫女的存在。つまり、父親が屈強の戦士で、母親が巫女だから双方の血を濃く受け継いだ僧侶戦士であり、魔物使いなんだな」

ダイアンナ「勇者ではないけど、特別な血筋にあるわけだな」

アスト「そう。このドラクエ5は天空の勇者クエストでもあるわけで、大多数のプレイヤーは『どうせ主人公が勇者だというオチだろう』と思っていたら、実は勇者の血筋はヒロインの方に受け継がれていて、最終的に生まれた息子が勇者だったと判明して、初見で驚かされるわけだな。つまりドラクエ5は父子3代の勇者一家の物語ということになる。ただ、勇者の血筋は世代交代に応じて劣化するようで、この息子勇者はライデインを覚えるけど、ベホマズンを覚えずにベホマラー止まり。その代わり、主人公が覚えないザオリクを覚えたりして僧侶色が強まっている」

リバT「まあ、ダイ大の勇者もベホマズンは覚えませんし、勇者の証はライデインで定着なのでは?」

アスト「勇者と言えばライディーンだしな。そのうちエクスカイザーにちなんだ呪文名とか、何かのゲームで採用されないかな、と思ったりもするが」

リバT『その作品も、90年から91年なので割と同時期なんですね』

アスト「ドラゴンカイザーとかつなげられなくもないが、ダイ大で言うなら大魔王バーンの技であるからなあ、カイザーフェニックス。ドラクエにも実装されないかなあ、フィンガーフレアボムズとか、カイザーフェニックス」

リバT『メドローアとか、グランドクルスならぬグランドクロスは逆輸入で、実装済みですからね』

ダイアンナ「細かいことはちっとも分からんのだが、ダイ大が本家のドラクエに影響を与えたことは分かった」

アスト「それだけじゃない。FF5にも影響を与えている。魔法剣とか、魔獣使いが壺にモンスターを封じ込めて召喚するとか、ダイ大の一部要素を取り入れているケースは見られる。大事なのは、良いアイデアを上手く流用して新たな自分らしさとして構築し直すことだ。そのまま継ぎ接ぎのように深く考えずに使うのではなく、新たなビジュアルイメージと足し合わせて整合性を図るとか、きちんと料理して見せることが大事。FFの魔法剣士はアラブ風の衣装と相まって、違うイメージに移し替えたし、ダイ大にしてもFFにしても起源を辿ればD&Dに由来するわけだからな。剣に電撃を付与するのは、それこそグレートマジンガーボルテスVの70年代からやっているわけだし、火炎剣はダルタニアスだ」

ダイアンナ「ロボットアニメなんかに見られたビジュアルイメージが、特撮やゲームや、他のジャンルのアニメに継承されたり、相互に影響を与え合っている様子は、研究すればするほど、安易にパクリがどうこうで片付けるのが浅はかに見えてくるなあ」

アスト「類似の法則は、魔術研究の一歩らしいからなあ。似ているものを見つけて関連づけるのは悪くないけど、その発見を自分で見下して悦に入っていたんじゃ、その行為がクリエイターの資質を自分で台無しにしてしまうということは理解した方がいい。新たな創造というのは、先人の研究や創作を自分でもあれこれ試してみた後に、ふとした閃きを発展させる中で生まれるものだし、その混ぜ方、素材の流用の仕方に巧みなオリジナリティを感じさせることがクリエイターの腕の見せどころだろうからな。
「パクリ云々を言うなら、ドラクエウィザードリィウルティマのパクリ流用でしかないと切り捨てるのは簡単だが、マニアックな新ジャンルの作品を初心者にも分かりやすい王道として再構築した技量と先見の明は、安易に切り捨てるにはあまりにも勿体ない。まあ、切り捨てるなら、じゃあ何を評価するのか、当人にとってそれ以上に価値あるものが何なのか、そこを示し得ないようでは、つまらない破壊者にはなれても創造者にはなれないわけで、評論の価値は良いものと悪いものを選別できる視点あってこそだと思うぜ」


ダイアンナ「とりあえず、ドラクエ5が勇者を探す父親の物語ということは分かった。時期的に影響の与え合いが、ドラクエ4→FF4→ドラクエ5FF5であり、その間にダイ大なんかも入って来ることもな」

アスト「元々は、ドラクエが先発で、後発のFFが後を追う流れだったんだが、6で逆転現象が起こる。92年の秋に先発したドラクエ5は、仲間モンスターシステムと父子3代の受け継がれる大河ストーリーで一つの完成形を迎えたんだが、同年末にFF5も発売され、それはそれでFF3を発展させたゲーム性豊かなジョブチェンジシステムと3つの世界を股にかける壮大な世界観で、ドラクエインパクトをたちまち覆す。そして、ファンは次回作にも大いに期待したんだが、先に出たのが94年のFF6だった」

ダイアンナ「そっちは勇者や聖戦士とは関係ない物語という話だが?」

アスト「ああ、時代背景を中世の騎士道に基づくファンタジー世界にSFメカ要素あるいは古代文明のレトロメカギミックを仕込んだのがFFだったんだが、6では魔導科学と産業革命期のスチームパンク風の世界観を基軸にしている。ルネサンス以前の13世紀ぐらいな感覚が19世紀になったというか、剣とか槍でドラゴンと一緒に戦う騎士の物語だったのが、魔導アーマーに乗ってレーザーを撃ったり、帝国軍が幻獣を捕獲して魔力を抽出して魔石を生み出して、行き着く先に本当に世界崩壊まで見せてくれる陰鬱なストーリーなんだな」

ダイアンナ「暗いのか?」

アスト「ああ、暗い。当時のFFは奇数ナンバーが明るい冒険譚を志向していて、偶数ナンバーが専制国家の世界侵略に立ち向かうレジスタンス活動がメインのドラマチックな影ある物語を志向していた感じだが、6ほどプレイヤーキャラクターが『過去に傷を持った悩めるメンバー』だったことはそれまでなかった。その中で葛藤を乗り越えて、雄々しく立ち上がるまでが燃える展開とも言えたし、逆境主人公という意味ではドラクエ4や5もそういうドラマを見せてはいたんだが、世界そのものは明るく活気が溢れていたんだ。しかし、FF6は世界観まで暗い。もちろん活劇調の盛り上がりはあるんだけど、主人公たちの葛藤を突きつめて、ドラマとして見せるFFというのがこれ以降、7や8などに受け継がれ、もっと大らかな光の戦士が闇を払う古き良き英雄ロマンではなくて、闇を内包した者たちが絶望を経験しながら傷つき倒れても雄々しく立ち上がっていく近代風人間群像ロマンの流れだな」

ダイアンナ「ええと、昭和ライダー平成ライダーの違いに相当するのかな?」

アスト「雰囲気はそうかもな。そして、そういう世界観的な切り替わりを見せたFF6に対して、翌95年に出たドラクエ6は夢と現実の交錯する自分探しの物語として、5とは違う形での勇者クエストを提示する。シリアスかつリアリスティックな方向を追求し始めたFFに対して、こちらは明るい大らかな世界と自己の探求をテーマにし、表面上は非常に明るい作風と言えた」

ダイアンナ「表面上は?」

アスト「そう。ドラクエ6は、3のオマージュなところがあって、上の世界と下の世界が存在する。下の世界は『幻の大地』と呼ばれ、上の世界のパラレルワールドみたいな形になっている。この上下の世界移動を繰り返しながら、世界の秘密を解明していくのが6の面白さの一つだ」

ダイアンナ「複数の世界を股にかける、という意味では、FF5へのオマージュという感じもあるな」

アスト「そうなんだ。ドラクエ6は、ドラクエ3への自己オマージュであると共に、FF5の影響も多いように感じられる。それは転職によって特技や魔法を習得するシステムであり、元々はドラクエウィザードリィから継承したシステムが原型にあるんだけど、そこに特技であるアビリティを着せ替え感覚で習得するのが新しくFFの生み出したもの(TRPGとしては『ウォーハンマー』という先例あり)。これによってキャラクターを自分好みにカスタマイズする楽しみが増えたんだが、ドラクエも後から似たようなシステムを採用したんだな。その結果、FFが6で新たな方向性を模索したのに対し、ドラクエの6はFF5を踏襲したシステムで、完全に出遅れたようにリアルタイムのファンには感じられた。FFがドラクエを越えたのは大体この時期とされているな」

リバT『まあ、先にファミコンからスーパーファミコンに乗り換えたFF4の時点で、すでに越えていたという意見もありますけどね』

アスト「先鋭的な革新作のFFと、保守王道を貫くドラクエという評価もあったな。で、ドラクエ6だけど、勇者は他の職業からの転職を繰り返して到達するシステムで、主人公が転職しやすいという特徴はあるけど、条件さえ満たせば誰でも勇者になれるというのが6と7、そして9の特徴だ。誰でも勇者になれるというのが喜ばしいことなのか、それとも勇者の存在価値が下がったと思うかは賛否両論あるが、これについてもダイ大の中で答えが出されている」

ダイアンナ「どんな答えだ?」

アスト「後々、北の勇者ノヴァというキャラが出て来るんだが……」

ダイアンナ「ダディーNOVAの名を持つ勇者だと!?」

アスト「絶対、NOVAは喜んで感情移入してネタにするだろうが、その前にオレがネタにしてやったぜ。とにかく、未熟な勇者ノヴァはダイが勇者として周囲からチヤホヤされているのを見て、嫉妬心から対抗意識を燃やすんだな。『どっちが真の勇者か勝負だ』とか言って。でも、ダイは『勇者は何人いてもいい。強大な魔王軍に立ち向かうには、頼れる仲間は多い方がいいんだから』とノヴァの対抗意識を宥めながら、ドラクエ6の勇者論争に一応の答えを示すんだ」

ダイアンナ「なるほど、勇者は何人いてもいいのか。いわゆる量産型勇者が認められて、ザコ勇者、ダメ勇者、ポンコツ勇者と、神々並みに勇者の価値も失墜する時代の幕開けだと」

アスト「まあ、しかし、卑しくも勇者を名乗るんだったら、勇者の誇りを胸に秘めながら、称号に負けない自分を形作る土台にはして欲しいものだな。自称する肩書きの重さをしっかり踏まえながら、自己精進や日々の研鑽に励む者こそ、肩書きに恥じぬ輝きを宿すことができるんだから」

リバT『アストさんにしては、素晴らしい言辞ですね』

アスト「まあな。オレだって、苦労してウルトラマンの肩書きを持つに至ったんだから、この90年代はみんなが勇者とか、地球はウルトラマンの星とか、誰もがその手に光をつかめる可能性を提示されたんだと思うぜ」

ダイアンナ「だけど、誰もが容易く闇に堕ちる危険が明示された時代でもある。光と闇は表裏一体というのが、旧世紀末から21世紀の平成時代に描かれた物語の傾向だからな」

アスト「表と思えば裏だったりする逆転構造。これがドラクエ6でも示される。実は現実だと思われた上の世界が夢の世界で、幻だと思われた下の世界が現実の大地だというのが、中盤に入る頃に明かされる世界の秘密。夢と現実が切り離され、主人公自身が実体なき夢の存在であり、下の世界で自分の肉体を探し出すことで、真の力を取り戻すドラマが展開される。自分探しの旅というのが、抽象的なお題目ではなく、本当に自分の実体を探す流れになるわけだ。この部分は、FF7(97年)の記憶を失った(あるいは捏造した記憶で自分のアイデンティティーを構築した)主人公という形でも継承され、また平成ライダーでも度々、自分の記憶を失った主人公が登場し、そこから自分の秘密と物語世界の秘密がリンクするドラマ構造が量産されるようになるわけだ」

ダイアンナ「ゲームとは言え、結構深いんだな」

リバT『90年代のゲームストーリーは、創作物として飛躍的に発展しましたからね。そこから既存のドラマや映像作品にも影響を与える過程が21世紀だと』

アスト「ゲームというのは、プレイヤーが物語にある程度、自律的に介入できるインタラクティブな創作物だからな。この双方向な物語構造がインターネットと重なって、クリエイターと遊び手の垣根が取り除かれて、意欲と精進、技術さえあれば、誰でもクリエイターたり得る時代。ただし、その中で自分の言動や作品に矜恃と責任を持って活動できる人間がどれだけいるかは、また別の話だけどな」

ダイアンナ「ドラクエ6は誰でも勇者になれる。もちろん、主人公は特別に勇者になりやすい才能があって優遇されているわけだけど、だったら、神さまはどうなっているんだ?」

アスト「ここで原点に返って『大地の精霊』を祭っている村の信仰が序盤に語られる。天空シリーズ天空城マスタードラゴンが神扱いなんだけど、6は3のロトシリーズを受け継いだ設定も見られ、最終的には夢の世界が天空城になって、ロト世界から天空シリーズへの橋渡し秘話みたいなミッシングリンクとして結実する。ロト3部作とは違う形で、勇者になって天空城を生み出すまでの戦いを描いたのが6と見なすことも可能だな』

ダイアンナ「じゃあ、ハッピーエンドなのか?」

アスト「さあな。表面上は明るいドラクエ6なんだけど、明るいのは上の世界、夢の世界であって、下の世界は魔王によって滅ぼされた地域がいろいろあって、結構、重い雰囲気だ。夢の世界に封じ込められたハッピー成分を下の世界に反映させて、悲劇を解消するのが物語中盤以降の旅の道程なんだが、中には夢と現実のギャップとか、失われたまま修復できない事物もあって、その最たるものがパーティー仲間のヒロイン・バーバラだ。彼女は下の世界の肉体そのものが完全に消滅してしまったので、夢の世界でしか存在できない。つまり、夢と現実の融合を目指してはみても、どうにもならない現実があって、いろいろと余韻を残す終わり方だ。ドラクエ3の『そして伝説へ』の荘厳なエンディングとは異なる、失われた夢のもの悲しさ、寂しさみたいなものを感じるわけだよ。これも80年代と90年代の時代背景の違いかな」

リバT『ところで、ドラクエ6にも本記事のテーマであるパラディンという職業が、勇者とは別に存在するのではありませんでしたか?』

アスト「ああ、武闘家+僧侶でパラディンになれたんだったな。そっちは武器で戦う聖戦士よりも徒手空拳を駆使する聖闘士的なイメージだが、神に選ばれた光の戦士的なイメージが欠如しているような気がする。シリーズでは6から7、9、10に実装された上級職だけど、優秀な反面、6の時点ではパラディン→勇者への転職ルートがないのが欠点か」

ダイアンナ「神に選ばれた聖戦士的な勇者と、自ら神の道を志して鍛錬を重ねた聖闘士的なパラディンとの違いだな」


@その後の勇者(?)の物語


アスト「では、ここから2000年代の話だ。ちょうど2000年に出たドラクエ7は、初のPS作品で6の延長線上にある転職システムと、石板に封じられた過去世界の事件を解決することで滅亡した現実世界を復活させる歴史改変物語の融合だけど、とにかく話が陰鬱で、しかも単調に長いので、いろいろと賛否両論が湧き上がった作品だ。
「何よりも、この後のドラクエは○○シリーズと称されることもなく、一作一作が別のシステムと別のゲーム機種で発売され、シリーズとしての連続性に欠けた形になっている。FFの後塵を拝するようになったとか、試行錯誤の迷走ぶりがひどいとか、勇者が格好よくないとか、女の後を追って離脱したキーファ王子が許せん(種返せ)とか、新世紀のネット社会で叩かれネタとして大人気な7は、スパロボ界のKに匹敵するほどだ」

ダイアンナ「何だか評価が酷くないか?」

アスト「過去と現在を石板を通じて行き来して、不幸な歴史を改変する物語はアイデアとして面白いんだよ。だけど、そのおかげで主人公たちが完全に事件の傍観者の立ち位置なんだな。実際、この7の物語は『子どもたちが冒険気分で石板世界に飛び込み、大人たちはその子どもたちの冒険物語を知らずに、単に古代遺跡で遊んでいるだけ』と思っている。石板の過去世界で行方不明になったキーファ王子の悲劇ぐらいが大きな事件で、それ以外には主人公周りのドラマが薄いというか、だったら、もっと子どもらしい明るく楽しい冒険譚でいいのに、陰鬱な悲劇の繰り返しと、事件は解決しても、それを知ってるのが子どもたちだけで達成感が乏しいこととプレイしているワクワク感に欠けるんだな。『勇者さま、ありがとう』と感謝の言葉をかけられることが心理的報酬として、どれだけ大切か7で実感した。そして、主人公を冒険に誘った陽性キャラのキーファがいなくなると、途端に冒険を続けるモチベーションが絶たれる(プレイヤー自身の好奇心、ゲームを続けたい気分は別もの)ので、キャラに感情移入するほど、キーファの無責任ぶり、主人公への丸投げぶりに憤りが込み上げてくる」

ダイアンナ「酷評しまくりだな」

アスト「石板で過去の事件を修復できるなら、むしろキーファとの人間関係の方を修復したいぜ、オレは。キーファ、一発殴らせろとか、仮に補完するなら過去の世界に一人残ったキーファがピンチに陥っていることが分かった。だから、マリベルの反対を押しきって、キーファを助けに行ったら、彼からの情報で世界を脅かす闇の存在を知った。キーファが『俺はもう少しこっちに残って調査を続ける。闇が世界を脅かすなら、今の平和も壊されてしまうからな。お前は今の平和を守ってくれ。また何か分かったら連絡する』ぐらいのコミュニケーションが取れて、過去のキーファと現在の主人公が連携して、世界の平和を守るような話の流れだったら良かったんだ。
「あるいは、キーファの子孫のアイラがもっとアクティブなキャラで、いなくなったキーファの穴を補って独自のドラマを展開するならともかく、単なるパーティーの頭数合わせでしかなく(それでも4人パーティー制なのに、メンバー5人なので最終的に一人あぶれる)、主人公周りのドラマがあまりにも薄すぎる。4以降のドラクエ物語の個性的なキャラとのやり取りを放棄して、通りすがりの街の事件解決して去るだけの繰り返しに退化したようだ(しかも街の人は主人公の活躍を知らないので、ほとんど感謝もしてくれない)。インタラクティブさが売りのゲームで、主人公たちに関わったキャラが建設的なリアクションをしてくれないのでは、虚しさを覚えるばかり。何かの苦行かよ。その行き着く先が『世界を救っても、お前はまだ子どもなのだからな。しっかり漁師の修行に励むんだ』みたいなエンド」

リバT『主人公くんが日常的に、「俺は勇者になりたいんじゃねえ。漁師になりたいんだ。俺が漁師になる夢を邪魔しようってんなら、魔王だろうと、神だろうとブッつぶす。世界最強の海賊王の血を引き継いだ最高最善の漁師の恐ろしさ、たっぷり思い知らせてやる。覚悟するんだな(荒くれフィッシャーマンスマイル)」って豪快キャラなら、楽しめそうなんですけどね』

アスト「あの主人公ビジュアルで、そんなキャラだと思うか? とにかくこの作品を通じて分かったのは、『魔王なんかを倒して平和になった世界では、勇者の肩書きよりも、漁師として一人前になることの方が価値を持つ』という世の中の真理だな。『もっと大人になれよ』というドラクエ5モチーフの映画YSの余計なお世話メッセージは、すでにドラクエ7で学んだんだよ。『世界を救うよりも、惚れた女の後を追って、責任を放棄する生き様を選んだ男に、ズッ友宣言された手紙を受け取った』時にな。これが大人かよ」

ダイアンナ「それにしても、アストよ。お前、調子に乗って、ずいぶんドラクエ7の悪口を言いまくりじゃないか? ダディーがもしも熱狂的な7のファンだったら、どうするつもりなんだ?」


鉄太郎「熱狂的なセブンのファンがどうしたと言うんだね?」

アスト「うおっ、鉄太郎さん!? まさか聞いていたのですか?」

鉄太郎「うむ、君がセブンの悪口を言っているような気がしてな」

アスト「いや、そいつは誤解です。ウルトラの話じゃなくて、ドラクエ7の話ですから」

鉄太郎「しかし、セブンはセブン。これも何かの縁だ。セブンの何が悪いのか、もう一度、順序立てて説明してくれないか? 君の愚痴ぐらいには付き合ってあげるよ」

アスト「……(冷や汗たらり)」


 果たして、セブンの悪口を言ったアストの運命は?
 口は災いの門なり。

ドラクエ話は、次回につづく。その後、パラディン話をまた改めて)