ウルトロピカルな⭐️GT(ゲーム&トレジャー)島宇宙

南の島と上空の宇宙宮殿を舞台にTRPGや特撮ヒーローなどのおしゃべりブログ。今はFFゲームブックの攻略や懐古および新作情報や私的研鑽メイン。思い出したようにD&Dに触れたりも。

多元宇宙概論(その3)

お盆休みも明けたので、今週はいろいろと補完活動に努めてみるわけですが、当ブログの記事も、総括後の平常運転にゆっくり戻して行こう、と。

 

で、ゲームから離れた多元宇宙の歴史を語ってみた当タイトルですが、簡単にここまでの流れをおさらいすると、

 その1では、アメコミ・クロスオーバーの起源的な『ジャスティス・リーグ』(1960年)と『アベンジャーズ』(1963年)について触れた後、日本のフィクションに話を移して、70年代の特撮ヒーロー作品のシリーズ化、さかのぼって60年代の怪獣対決映画、そして70年代のアニメロボットの共演映画など、複数作品の共演祭りを振り返りました。

 

 その2では、同一タイトルのリメイクをテーマに、一つの作品タイトルから派生するパラレルワールドについての考察、というか懐古記事を書いてみました。一応、ターゲットは70年代終わりのリメイクブームを狙ってみたのですが、どうもその時期のリメイクってその一本ぐらいで終わりがちで、新たなブームを呼ぶことは少なかった感じです。

作る方も、鑑賞する方も、懐かしいなあって気分で終わりがちで、最近はリブートという言葉も使われたりもしますが、単なるリメイクは一過性で終わり、そこから、どう新しい流れを生み出して行くかで、試行錯誤が見られます。

リメイクで成功したのは、70年代末ではなくて、80年代末からの方になりますかね。具体的には平成ゴジラ、平成ウルトラ、平成ライダーになるわけですが、むしろ時代ごと変えないと定着しないのかな、と考えたり。そうなると、平成から新元号に切り替わった時に、またリメイクがいろいろ活性化することにもなるのかな、と予想するわけで。

今後の流れとしては、まず集大成を描いてから、新時代のヒーローと旧作リメイクヒーローが混然となる時代を経て、そこから何が新たな時代の旗手になって行くか、ですね。

 

70年代のリメイクが後に続かず、80年代終わりからの平成リメイクの方が長続きするようになったのは、一因として前者は「懐かしいからといって蘇らせた時点で目的達成」してしまい、その後の展望が見えていないままの見切り発車だったからかな、と考えます。

とりあえず、技術が発達した→旧作を新しい映像で復活させてみた→みんな懐かしがって喜んでくれた。ここまではいい。でも、その後、どうするの?

 

創り手としては、そこから新しい展開を見せたいんだけど、一転、新しすぎると「これは俺の好きな◯◯じゃない」とこだわるファンの声が聞こえて来て、旧作の縛りが結構プレッシャーになる。ファンとしては、リメイク作品に期待するのは新しさではなくて、懐かしさなので、そういう懐古感情を逆撫でするものに対しては辛辣な評価をするようになった。

だから、その懐かしさと新奇性のバランスをどう取るかで試行錯誤してしまうのがリメイク作品の難しいところです。

 

では、それが80年代の終わりになると、どう変わったか。

映像ソフトの商品化によって、マニア層は幼少期の懐かしい作品をいつでもビデオやLD、DVDで堪能できる時代になったことが大きいのでは?と。懐古感情は手持ちのソフトで充足できるので、新番組に対しては、「昔のものと違う」という不満が減退。逆に旧作と新作の違いを比較対照しながら語る研究者タイプのマニアも登場。つまり、大切な思い出は思い出として保存しながら、今ある新しいものを受け止める余裕がマニアの方にできた、と。

 

80年に蘇った『仮面ライダースーパー1』は直接的な後番組としての新作ライダーにはつながらず、ただ、その「宇宙」「メカニック」「銀色のカラーリング」というキーワードは、82年の『宇宙刑事ギャバン』に引き継がれ、新たな時代の牽引力になったりしながら、それが逆に後年の仮面ライダーにもフィードバックしていく流れは結構、興味深いな、と思ったり。

 

で、今回の多元宇宙概論は、そういう話の流れは一切無視して(オイ)、また別の異世界の話を振り返って見るつもりです。

そのテーマは……

 

魔法少女の系譜(特撮ヒーロー作品との関連付け)

この小見出しを見て、一瞬、呆然として、メダパニ状態、あるいはピプペポパニック状態に陥った人がいるかもしれない。

「どうして宇宙刑事ギャバンまで話を展開した後で、魔法少女に話が切り替わるんだよ。NOVAは前回、正気に戻った、と言ったが、今なお、狂気継続中なのか? 元・難波ティーチャーだからマッドなのか? げんとくんの消失でおかしくなったのか? まさか、俺たちを魔空空間か幻夢界か不思議時空に引きずり込もうとしているのか?」などと、考えた読者の人がいれば(いるのか?)性急な判断を下す前に落ち着いて、

ネットのどこかで『宇宙刑事ギャバン』の前番組が何か、を確認して欲しい。

そう、『ハロー!サンディベル』だ。
サンディベルの前番組は『魔法少女ララベル』で、その前が『花の子ルンルン』で、その前が『キャンディ・キャンディ』と遡ることができる。
まあ、サンディベルやキャンディは魔法少女ではないけれど、ルンルン、ララベルは立派な魔法少女であるからして、宇宙刑事ギャバン魔法少女の系譜を受け継ぐ作品と主張することも……できるんじゃないかなあ。

だって、ヒロインのミミーは小鳥に変身できるし、敵には魔女キバがいるし、ドン・ホラーの魂は後にビルドの紗羽さんに顔の似た人を依代として復活しようとするし、その女優さんは護星天使候補だったので魔法少女みたいなものだよね、ウン(無理矢理感)。
しかも、次作のシャリバンでは、イガクリスタルというファンタジックな力の秘宝を巡る戦いに、元・透明ドリちゃんが関わって来て、しかも敵は魔王と来た。SFヒーロー物を見ていたと思ったら、実はファンタジーRPGの定番を先取りしていたわけで(ここは無理じゃないっぽい)、
さらに、3作目のシャイダーでは、戦士シャイダーという伝説の勇者の子孫が主人公で、敵は邪神を崇める宗教結社。まあ、ヒロインのアニーを魔法少女と言い張ることはできないと思うけれど、敵のギャル軍団の衣装は悪の魔法少女チームのコスチュームに相当するだろうし、珍獣たちもダークサイド方面の妖精と言えなくもない。
その後は、ジャスピオンで敵キャラにプリマやギルザ、ギルマーザといった魔女幹部を配置するスペースファンタジー世界観を提示し、そしてスピルバンに至って、「時空戦士」VS「守護神ワーラーを崇める魔女めいた女王パンドラ(曽我町子)」という、時空魔術師的には実に美味しい設定に至る。

まあ、次作のメタルダー(87年)以降は、宇宙やファンタジー設定はしばらくメインから後退することになりますが(戦隊などに受け継がれたと見なすことも可能)、それまでの80年代の特撮ヒーローは宇宙や未来科学というSF要素に、オカルトや魔術といったファンタジック要素を混入した作品を次々と輩出。まあ、直接、魔法少女という呼び方こそしないものの、「忍者風味の妖術や、くノ一風に立ち回る女スパイ」という敵サイドの見せ方で、特撮ヒーロー物に魔法というエッセンスを投入することに成功したと考えます。
もちろん、これらの作品は「スペース・ファンタジーという属性を持ったスター・ウォーズ」の影響を色濃く受けているのだけれど、さらには映画『宇宙からのメッセージ』からTVの『同・銀河大戦』そして『電子戦隊デンジマン』という和製スペース・ファンタジーの系譜の延長線上に位置しながら、「宇宙という未来SFっぽい世界観」に「忍者」「剣術」「魔女」「魔王」「神官」「姫」といったファンタジックなギミックを投入して、いち早く男の子をヒロイック・ファンタジーの世界に誘った作品群であったことは間違いないでしょう。

この時期に「SFロボット+異世界ファンタジー」というテーマに先鞭を付けたのは、『聖戦士ダンバイン』(83年)として語られることが多いけれど、ファンタジー的なギミックを男の子の間に浸透させていったという意味では、実は宇宙刑事シリーズとその後継者も大きな役割を果たしたのではないか、と主張してみるわけで。
「イガクリスタル→ファイナルファンタジーのクリスタル」とか「魔王や神官というボスキャラないし大幹部→ドラクエの敵」というイメージの継承も興味深いし、「ドラゴンに乗る銀鎧の主人公」ってギャバンのビジュアルも完全にファンタジー風味。
それまでは、ファンタジー=女の子っぽい印象が日本では根付いていたのを、80年代前半のメタルヒーロー物が完全に塗り替えた流れがあったればこそ、その後のドラクエやFFの世界観が広く受け入れやすくなったのではないか、と。

なお、これ以前に「宇宙プラス魔法少女」という系譜を提示した実写作品として、71年の『好き!すき‼魔女先生』や、67年および78年の『コメットさん』が挙げられますが、いずれも後に続く流れとならないため、系譜を語る上では、スポットを当てにくいところ。
まあ、前者は石ノ森章太郎原作で、後者は横山光輝原作。そして『コメットさん』を語るなら、先に『魔法使いサリー』について語れよ、という流れにもなるわけで。

いや、それでも78年の大場久美子版『コメットさん』とウルトラセブン、タロウ、レオをつなげることも可能ですし。脚本家(阿井文瓶)的には、『レオ』と『80』の間のミッシングリンクになっていたり、ゲスト俳優が特撮者としては凄いメンツが多かったり(主役だけで仮面ライダーXミドレンジャー、白獅子仮面、ライオン丸、バンキッドペガサス、カゲスター、スカイゼル、マッハバロン操縦者の嵐田陽、おおとりゲン)、いろいろ並べてみると、何だかコメットさんが多元宇宙の特異点のようにも見えて来たり。


魔法少女(エブリデイマジック)と多元宇宙観

ギャバンからメタルヒーローの持つファンタジー性に話を展開してから、また時間を遡って、コメットさんにつなげて、そこから日本の元祖魔法少女アニメ『魔法使いサリー』(66年)に戻って来たぞ、と。
なお、サリーは89年(平成元年)にもリメイクされたので、旧サリーを昭和サリー、新サリーを平成サリーと呼ぶことも可能ですが、すると、新元号が始まったときに3作目のサリーがリメイクされる可能性も考えられますな。


そして、ここから魔法少女の系譜を延々と語ることも可能ですが、単純にそれだと芸がないと考えますので、違う切り口を試みます。
それは、サリーが人間界の女の子ではなくて、魔法の国から来たという根幹設定。そう、この「魔法の国」というのが多元宇宙のファンタジー設定を考える上で重要なキーワードです。
これが昔の自分も含む男の子の好きなSF設定になると、「宇宙の星からやって来た」とか「未来からやって来た」といった設定になるのでしょうが、またオカルト要素が加わると「古代文明の子孫」とか「何万年もの眠りから目覚めた」とか時間を遡ったりもするわけですが、60年代から70年代当時の女の子は、そういう細かい理屈を必要としません。
もう、自分たちの日常とは異なる「夢あふれる不思議な魔法の国から来たお姫さま」って設定で、十分なんですね。

こういう女の子が不思議な世界に飛び込んじゃう話といえば、19世紀にルイス・キャロルの書いた『不思議の国のアリス』と続編の『鏡の国のアリス』、また1900年にライマン・F・ボームが書いた『オズの魔法使い』が古典と言えます。
一方で、異世界の存在が日常世界にやって来て、夢や事件の原因となるような作風(日常ファンタジーとも、エブリデイマジックとも呼ばれる)では、パメラ・L・トラバースが1934年に第1作を書いた『メアリー・ポピンズ』シリーズが古典として有名ですが、サリーやコメットさんもこの系統に分類される形。
また、主人公本人が異世界人のパターンと、主人公は一般人だったけど異世界の存在から魔法などの超常能力を後天的に与えられる「ひみつのアッコちゃん」パターンに分かれて、この分類は魔法少女だけに限らず、多くのヒーローでも主人公の出自・来歴によってドラマの方向性が変わって来たりします。


こういう分類において、実は面白いのは魔法少女ではありませんが、『ドラえもん』という作品。
言わずと知れたドラえもんは「未来の世界から来たネコ型ロボット」であり、存在そのものがファンタジー。そしてTVの日常エピソードは、ドラえもんが不思議なポケットから出すひみつ道具を基軸として描かれます。主人公ののび太くんが日常的なトラブルに出会って、ドラえもんに助けを求めると、ドラはひみつ道具を出してトラブル解決に動き出す。この道具のもたらす不思議効果でのび太君はハッピー状態になるわけですが、それだけだと話が面白くない。
だから、ここからいくつかのパターンで道具が暴走してしまう形になる。よくあるのが調子に乗ったのび太が道具をトラブルの解決を越えた私欲のために、またはいたずらのために使おうとして失敗するパターン。あるいは、道具そのものにドラやのび太が予想しない危険な副作用があることが判明し、危険な状態に陥るパターン。さもなくば、道具の力でひどい目にあわされたジャイアンスネ夫が復讐のために、道具を何とか手に入れて脅威になるも失敗するパターン。おおむね、のび太が自業自得で不幸になるか、逆にジャイアンたちの方が復讐失敗で不幸になるか、それとも道具の暴走を何とか抑えて一安心になるか、この三つのオチがつくことが多いと思います。稀に道具よりも、ゲストキャラやレギュラーキャラとの心の交流を描いたハートフルな話や、困っているゲストキャラを助けるために奔走して人を幸せにしてあげる話などもあるわけですが。

そして、このひみつ道具を魔法の力に置き換えれば、「日常に生じたトラブルを魔法の力で解決する心優しい魔法少女」の話が成立したりします。まあ、魔法少女の場合は、魔法が使えることを秘密にしておくとか何らかの制約があったりするのが普通なので、人が見ているから魔法が使いたくても使えないもどかしさとか、魔法のコントロールが不調で失敗してしまうとか、魔法に頼り過ぎることなく頑張ることを課されているとか、ひみつ道具とは異なるドラマ性を帯びたりしつつも、とにかく「日常では便利な不思議パワー」という意味では、ひみつ道具も魔法も大きく変わらないわけで。
ドタバタコメディにせよ、夢が実現してハッピーな回にせよ、力の制約や不調、暴走なんかに悩まされるにせよ、ライバルとの対決劇に展開するにせよ、日常編では主人公の持つ、あるいは手に入れた不思議パワーそのものの扱いが根幹テーマになるのだ、と。

しかし、劇場版のドラえもんになると、ドラえもんのいる世界そのものが日常で、それ以外の異世界が別に登場して、そこでのトラブル解決のための冒険譚が描かれることがほとんどです。
つまり、非日常的存在であるドラえもんと、他の(ヒーロー性が加味されてキレイになった)日常の仲間たちが、ドラえもんよりももっと非日常な別世界に行くことになって、そこを探検しながらいろいろ驚いたり、危険な目にあったり、ゲストキャラと交流を重ねたりしながらドラマが盛り上がっていき、最終的には非日常なドラのひみつ道具パワーで、もっと非日常な世界の巨悪を、知恵と友情と成長したハートとで打ち負かして冒険終了。楽しかった異世界と、そこに住む束の間の友人と前向きに別れを告げて、互いの世界での今後の健闘を願いつつ(さようなら、元気でやれよ。遠くからでも応援しているからな。ここでの冒険は絶対に忘れないからな云々)、いつもの日常に戻って物語終了、と。

つまり、TV版ドラえもんは、日常の中に非日常が紛れ込む典型的なエブリデイマジック、ご町内ファンタジー物なんですが、映画になると、その非日常がさらなる非日常世界で大冒険を展開するという「ノーマル非日常VSグレート非日常」という祭りをかれこれ40年近くも続けているわけですな。最初が80年の『のび太の恐竜』ですから、声優さんが切り替わった時期の2005年を除いて、毎年3月の風物詩となっている。
リメイクが6本あるのを除いても、ドラえもんはこれまで30以上の世界で冒険を広げ、救世主となっているわけで。凄いよ、ドラえもん。世界の危機を毎年救うなんて。
なお、世界最長作品数の映画シリーズとしてギネスブックに載っているのは、全48作の『男はつらいよ』シリーズだけど、ドラえもんがあと10年続けば、それに達するので、頑張って世界を救い続けてもらいたいものである。


さて、魔法少女について語ろうと思っていたのに、エブリデイマジックという切り口で突然、ドラえもん時空に飛び込んだまま、記事の方向性を見失ってしまったわけでありますが、寄り道転倒してもただでは起きないのが時空魔術師の所以。
何だか、ドラえもん映画について語っている間に、多元宇宙の世界観の意義付けについて、悟った気分なので、それをまとめて今回の話を締めくくろうかな、と。


★多元宇宙の世界観の意義付け

数多の物語において、どうして異世界なるものが必要なのか、異世界の存在意義とは何か、3つにまとめてみました。

●1.冒険の舞台としての異世界

まあ、これについては、普通に納得することでしょう。当たり前すぎて面白くないほど。
村一つが日常の田舎の村人からすれば、近場の森や山だって冒険の舞台になり得るし、都会に出るとなればそれこそ大冒険、摩訶不思議シティー・アドベンチャーって感じです(都会人にとっては当たり前の日常であっても)。逆に都会人にとってはローカルにしてワイルドな田舎こそ冒険の舞台となるのですが。
まあ、現代人の活動範囲は交通機関の発達などでもっと広がっているのですが、それでも普段行かないところ、よく知らない土地をおっかなびっくり探索することを冒険と称するなら、この世界でも地底・海底・アマゾンのジャングル・アフリカの砂漠・ヒマラヤ山中などなど冒険の舞台は多種多様。
ただし、実際にそれらの場所に足を運んだことがなくても、物語の中ではそういう数々の舞台とて結構、語り尽くされていることになります。つまり、フィクションの中では、この地球そのものすら冒険の舞台としては狭すぎるとも言えるのですな、目の肥えたマニアにとっては。

そうして、人類の夢物語、空想世界は果てしない大宇宙への冒険に飛び出したわけですが、その宇宙ですら物語の舞台として手垢がついた辺りで、さらに時空を越えた異世界へGOってノリを、最初は魔法ファンタジーという手段で、後に事象をむしばむ特異点というSF物理学用語で提示されるようになっているのが近年(ここ20年ほど)の傾向みたいですね。
この特異点云々を提唱した人が、今年の春に亡くなられたホーキング博士なんですが、彼の著書『ホーキング、宇宙を語る』が出版されたのが1988年(邦訳は翌89年)。リアルな物理学として時空のことや特異点などを語ろうと思えば、ホーキング博士に触れないわけには行かず、この機に触れてみた次第。
なお、ここからさらに現在は、ゲームの中などのヴァーチャルワールドにスポットが当たって、コンピュータの作り出した架空世界なるものも、普通に冒険の舞台となっているわけですが、ドラえもんもまだそこまでは進出していないみたいですね。すると、そのうちドラえもん映画に『のび太のゲームウォーズ』とか『のび太サイバースペース大冒険』とか作られないかな、と考えてみたり。

とにかく、今まで行ったことのない新しい世界、新しい冒険の舞台が求められる限り、多元宇宙が永遠に広がり続けるのでしょうな。人類の科学研究の進化、文明の発展、世の中の流行、そして何よりも広がる想像力に合わせるように。


●2.パワーソース(力の源)としての異世界

ドラえもんが未来の世界から来たのは、別に未来世界を冒険の舞台にするためではありません。あくまで、ドラえもんの不思議な力が、未来の科学によるものだと説明づけるため。
多くの魔法少女が、魔法の実在する異世界から来たり、あるいは異世界出身の妖精から魔法アイテムを授かったりするのも、魔法という不思議なパワーの理由づけのためというのが大きいですね。まあ、時には、ごく普通の女の子が魔法世界に召喚されて「世界を救って」と頼まれるケースもありますが。っていうか、近年は少女に限らず、しょっちゅう異世界に学生やニートが召喚されているような。
とにかく、「魔法の使える異世界から来たんだから、魔法が使えるのは当たり前」というロジックですな。いや、逆に「魔法の使える異世界から来たんだけど、このコアアースは魔素が枯渇しているので、大規模な魔法が使えない」とか「世界そのものが法則維持の結界に覆われているので、非日常的存在や能力は制限されている」とか、そういう設定の作品も散見しますけど。

これはウルトラマンやスーパーマンについても言えることで、どうして彼らは超パワーが使えるの? って質問されたら、「光の国やクリプトンといった遠い星の出身だからさ」で説明終了できてしまう。別にそこを物語の中で掘り下げなくても、「ああ、不思議な世界から来たから、不思議な力が使えるのね」で物語ギミックとしては十分なのだ。

「忍者の里から来た現代忍者」とか「怪物ランドから来たプリンス」とか「古代超文明から転生した能力者」とか出自を理由に超パワーを持つ主人公はあまりにも数多い。この場合も、彼らの故郷は物語内で登場させなくても話は展開できる。むしろ、登場させるとしたら、「ちょっと友達連れて里帰り」という気楽な理由を除けば、「こっちの世界でピンチになったので、さらなる力のために故郷に助けを求める」とか、「故郷そのものがピンチなので、こっちでバトル経験豊富な歴戦主人公が助けに戻ろう」とか、そういうクライマックス展開と組み合わさることが多い。
この場合、冒険の舞台の役割を果たすこともあるけれど、まあ、別に物語に登場しなくても、「主人公の力の源として存在が語られるだけで十分」なのがパワーソースとしての異世界である。

普通に日常生活を送っていたのに、ある時、突然、不思議な力が覚醒してしまった。どうしてなんだ? とあれこれ調べてみたら、ご先祖さまが異世界出身だったりするのが判明したりして。
ちなみに、ここまで異世界ブームが起こるまでは、放射能による突然変異とか、悪の組織に改造されてとか、事故に巻き込まれて何かの移植手術を受けたとか、謎の生物に憑依融合されたとか、パワーソースはいろいろありますけど、割と不幸。

自分の場合は、歴史や語学研究と持ち前の空想・妄想癖が融合して時空・言霊魔術が使えるようになった設定なので、修行と天賦の才の融合になるのかな。異世界はパワーソースというよりも研究対象扱いですからね。
花粉症ガールの場合は、元々、病気の症状の原因である花粉と、宿主の空想・妄想パワーがうまく結合して、PON!と生まれた感じですな。「植物の精霊」という実は後付け設定のために、何となく異世界ソースのような気にもなっていましたが、書いているうちに、動いているうちに設定が膨らむのはフィクションでは普通ですから。逆に初期設定から膨らませることのできない作者の方が、イメージ力貧困なために面白くないのかも。あとは、初期設定と矛盾しないように辻褄合わせをする論理的整合性とか、多少の矛盾は面白さの前に目をつむってもらおうという勢いづけなんかが必要かな。
実は、花粉症ガールは、古代植物文明の妖精王女が時を超えて転生した姿だったとか、後付け設定で出てきたらビックリですぞ。「実は私、植物界の王女だったの。今まで黙っていてゴメンなさい。故郷のスギカフン王国に戻る時が来たわ。NOVAちゃんとはこれでお別れね。今までずっと楽しかった。ありがとう。さようなら」なんて言って、かぐや姫みたいに去られたら、一体どうしよう、と考えなくもない。

あ、次元ドルイドのハイラスさんは明らかに異世界出身だから、時が来れば帰っちゃうことも想定内ですけど、いつ帰るかは知りません。そろそろロードス時空とつながりそうなんですが、そこから新展開はあるのかな。


●3.キャラクターの居場所としての異世界

これはクロスオーバーとも絡むのですが、ディケイドが最も的確に述べていましたな。
「ここが仮面ライダークウガの世界か」とか。

そう、一つの世界で様々な物語が展開される連続もの、あるいはシェアードワールド的なものを除けば、一つの物語主人公につき、一つの背景世界が構築されているのが基本です。
仮面ライダーを例に挙げるなら、昭和のBLACK RXまではシリーズ物として明確につながっています。まあ、RXの前のBLACKは歴代ライダーとのつながりが明確ではなかったわけですが。
一方、真以降のネオライダー、クウガ以降の平成ライダー1期は、それぞれが別々の物語世界を構築。イベント映像やゲーム、舞台劇などの公式外の祭りを除けば、異なる物語に合わせて独立した世界観を備えた物語群となっていました。
その流れを変えたのが、特異点と時間移動をテーマにした電王で、ここからキバ、ディケイドという1期の時空ライダー3部作(今、勝手に命名)によって、別々のライダー物語が統合されていったのが、ここ10年ほど前からの展開。

次回作のジオウは、この電王とディケイドを融合させたような設定で、クウガ以降の歴代平成ライダー個々の時代を懐古するような物語とのことですが、ディケイドの時は「リ・イマジネーション」と称して、電王を除けば要素抽出型の似て非なるライダー世界を示していました。各ライダー世界は、素材は似ているものの、これじゃない感、あるいは、こうなっていたかもしれない感を見せて、このアレンジぶりが時に拍手だったり、逆にこりゃないでしょ、と思わせたり、まあ、ディケイドが世界の破壊者設定なので、彼の訪れたライダー世界はみな元の作品とは歪められるという解釈で納得したりも。
ジオウの場合は、元のライダー世界と人物を忠実に見せてくれると聞きますので、どこまで主人公役者が出演してくれるかが気になりつつ、どの時代を描くかも気にしてみたり。例えば、俳優出演が確定しているビルドの場合は、「過去の俺によろしくな」という予告セリフから推察できるように物語終了後だろうな、と予想するのですが、エグゼイドの場合、まだバグスター事件が世間を騒がせている時期か、そうだとするならライダークロニクル公開前か公開後か、あるいはTVの後日譚的な時期なのか、どのタイミングの永夢とジオウは邂逅するのかが気になるところ。

そして平成ライダー1作目のクウガは「みんなの笑顔のため」に戦うことを宣言し、現在、最終話を目前にしているビルドの方は「ラブ&ピースのため」と主張。この「◯◯のため」というキーワードがそれぞれの主人公のかけがえのない信念だったり、生き様だったり、物語テーマだったりすることも多いわけですが、平成2作のアギトは「(自分も含む)みんなの居場所を守るため」となります。
当時聞いた時は、何とも陳腐な動機付けか、と思ったものですが、今は違う感想を抱いています。一つの大きな世界という大義ではなく、みんなという言葉に象徴される「一人一人個々」の大きさ、広がりに。アギトは記憶喪失なので、自分というものを持たない存在なんですが、それでも「津上翔一という偽名」と「美杉家という家族、生活の場」を得ている。居場所があるから、明るく振る舞えて、自分を見失わずに生きていける。これがもしも居場所を失えば、アギトという「戦うだけの戦闘マシン」になってしまい、闇に堕ちてしまう可能性。これが当初の設定で、前作クウガから受け継いだドラマの発展形であり、アギトの物語は三人三様の戦う動機や生き様が対照的に描かれているわけで。
「警察官として市民の安全と大義のために必死に戦う職業人のG3」や、「夢や居場所を失った怒りと復讐のために異形の身に苛まれながら過酷な運命の戦いを続けるギルス」に比べ、日常は明るく振る舞いながらも、不意の超知覚で異変を察知した際に自分の意思とは関係なく人が変わったようにアンノウンを倒しに行く「日常生活と非日常バトルが切り離されたアギト」は正直ドラマが分かりにくい。まあ、これがだんだん謎解きと共に記憶が蘇ってきて、翔一とアギトの切り離された人格がうまくつながる過程がアギト単体のテーマなんだけど、ぶっちゃければ、アギトは「分断されたものが一つにまとまって、人間の闇も光も統合して、しっかり生き続けよう。過去の悲劇も、現在の苦闘も、未来の希望に昇華しよう」って話なんだ、と今の自分は理解している。

そこに4人目のアナザーアギトを加えると、生ではなく死のドラマも見えてくるのだけど、結果は死でも、孤独死ではなく、仲間となったライダーたちの未来のために自分の命を使う医者の本分に則った満足できる死である。まあ、医者ライダーというキーワードでつなぐと、エグゼイドやバースを思い出すけど、レスキューとからめて、また考察してもいいかもしれないですな。

ともあれ、アギト=都上翔一の最後の居場所はシェフだったりして、自分の店を持って、自分の料理で知人をもてなす明るい笑顔で物語は締めくくられます。
クウガ以前のライダーは、戦いが終わった後も日常に戻ることができず、何処とも知れぬ旅へバイクで走り去って行くエンディングがもっぱらで、平和を勝ち取って戦いから解放されたクウガ=五代雄介も仲間たちの元を去って異国への旅に出た幕切れ。70年代ヒーローは割と旅立ちエンディングが多く、日常回帰エンディングは珍しいようで、仮面ライダーシリーズも長らく、そういう呪縛から逃れられなかったのですが、アギトで新しい大団円の形が提示された。
つまり、歴代ライダーの中でもアギトが初めて「自分の居場所を勝ち取って、戦いとは違う日常を取り戻したライダー」ということになるわけですね。

その後の歴代平成ライダーのエンディングは、大きく三つに分かれ、従来の「一人で旅立つロンリートラベルエンディング(剣とかカブトとかオーズとかウィザードとか)」の割合が減り、旅立つにしても「仲間や大切な伴侶と一緒に旅立つ、あるいは旅を続けるハッピージャーニーエンディング(電王、キバ、ディケイド、鎧武)」のパターンが増え、そしてアギト以降の「職業人が日常生活を続けて営む日常回帰エンディング(龍騎響鬼、W、フォーゼ、ドライブ、ゴースト、エグゼイド)」が飛躍的に増えたな、と。
ここに、何だか燃えつきて死んじゃったような、だけど曖昧ではっきりしない「もしかして死亡? エンディングの555」が加わって全部ですが、後のライダー大戦でやっぱ生きてたよって見せたり、ライダー4号でやっぱ死んじゃったよって見せたり、安定しませんね。

さあ、ビルドはどこに分類されるかなあ。


★後書き雑談


ハイラス「久々にNOVA殿の文章を拝見したが、相変わらずの変化球ぶりに苦笑いでござる」

NOVA「ほう、この記事を単なる変化球と感じたか。すると、お前は俺のストレートな魔球の本質を見抜いていないということになるな。まだまだ甘い」

ハイラス「しかし、これはどう見ても変化球でござろう。試みに軌跡をたどると、宇宙刑事ギャバンスピルバン魔法少女ドラえもん平成ライダーと球筋がブレまくりではないか」

NOVA「つまり、メタルヒーロー平成ライダーという点で、ストレートな球筋ということになる。途中で変化しつつも、うまく元の軌道に収まってストライクになったわけだ」

ハイラス「だったら、魔法少女ドラえもんは何だったのでござるか?」

NOVA「もちろん、テレ朝の番組枠改編時空に合わせたわけだ。俺はリアルな番組改編の流れに準じただけで、俺の変化球は今回に関しては、実際の歴史に忠実な流れということになる」

ハイラス「それは、どういうことでござるか?」

NOVA「それを読み解く鍵は、テレ朝の金曜夜7時台の枠にある。今、7時と7時半の枠には、何が放送されている?」

ハイラス「ドラえもんクレヨンしんちゃんでござるな」

NOVA「では、ドラえもんの前には、その枠では何が放送されていた?」

ハイラス「ん? バカな。ニュース番組が10分ずれ込んで来たことを除けば、おおむねドラえもんは金曜夜7時枠を1981年10月以降、堅持しているが、その前番組はサンディベルだと?」

NOVA「そう、大山ドラえもんはニチアサ放送時代もあったのだが、その座を忍者ハットリくんに譲り、自身はサンディベルの放送枠に押し入って魔法少女の放送枠を奪ったのも歴史的事実なのだ。その意味では、東映魔法少女アニメの後継者枠はドラえもんだという主張も成り立つわけで」

ハイラス「すると、サンディベルは金曜夜7時半に移り、その後番組が宇宙刑事ギャバンでござるな。つまり、宇宙刑事ギャバン放送時期の1982年は、7時からドラえもんで7時半からギャバンという時空大作2本立てでござったわけか。ギャバン魔法少女ドラえもんの一見バラバラに見える要素が、サンディベルを通じて複雑なリンクを構築していた、とは、この次元ドルイドの目をしても見抜けなんだわ。サンディベルめ、何とも恐るべき魔女よ」

NOVA「いやいや、サンディベル自体は魔法少女でもなく、ファンタジーでもない。うちの記事にはあまり関係のないジャンルの少女アニメなんだけどな。物語の方向性としては、『おジャ魔女どれみ』シリーズと『プリキュア』シリーズにはさまれた『明日のナージャ』みたいな作風だ。つまり、ファンタジーではなく、現実の外国を舞台にした少女の大河成長譚。サンディベルは特派新聞記者としてヨーロッパ各地を旅し、ナージャも旅芸人一座の踊り子としてヨーロッパ各地を旅する。母親探しがテーマになることも共通していて、この二作を比較検証するのも一興だと思うが、そもそも俺は、どちらの作品についても詳しくはないし、こだわっているわけでもないから、そこまでは俺の仕事ではないな」

ハイラス「その割には、妙にサンディベルに執着を見せているように感じられるが、気のせいであろうか?」

NOVA「いや、執着というか、ミッシングリンクへの好奇心だな。俺、サンディベルは一切見たことがないのに、その前のキャンディ、ルンルン、ララベルは普通に知っているんだわ。主題歌だって歌える。その理由は、うちの妹たち、リアル・シスターズが見ていたんだな。俺自身は少女アニメに興味がなくても、妹が興味を持てば、結果的に一緒に付き合って見ざるを得ない。テレビがお茶の間に一台、シスターズの部屋に一台という状況では、妹が見たい番組に付き合わざるを得なかったわけだ。そのため、キャンディ、ルンルン、ララベルまでは俺も見ることとなった。問題はサンディベル。これだけは妹の興味を引きつけなかったんだな。妹に聞いた理由は『だって、面白くないもん』だそうだ。可哀想なサンディベル、このままでは悪霊となって化けて出ても不思議ではない」

ハイラス「いや、十分不思議でござろう。魔法少女ではないのに、37年の時を越えて、悪霊少女サンディベルになって復活するなんて」

NOVA「だから、そうならないように今、話題に上げることで供養しているんじゃないか。サンディベル、君のことは忘れないよって」

ハイラス「番組自体を見てないのに?」

NOVA「俺の記憶にはなくとも、ネットであれこれ記録を調べることはできる。で、サンディベルは天下のドラえもん様に『おい、サンディベル。その放送時間枠を譲れよ。お前は30分後、ちょうどレッドビッキーズが終了した枠に収まっていればいいんだ。この枠は今後、ドラえもん帝国が延々と支配続けることになるであろう。このドラ様の予言は間違いない。何せ、未来から来たんだからな』と追い出されたわけだ」

ハイラス「何だか、ドラえもん殿の性格が違っているようでござるが」

NOVA「気にするな。すると気の毒なサンディベルちゃんはキャーッと悲鳴を上げて『そんな。この枠は天下のキャンディ様や、ルンルン先輩、ララベル先輩が守り続けた枠。さらに遡れば、マシンハヤブサさんや、勇者ライディーン様よりお譲りいただいた伝統ある枠なのに、ドラえもん帝国の強大な力の前に、魔法の使えない無力な私は抗う術を持たないの。みんな、ゴメン。私、この枠を守れなかった』と失意の撤退を遂げるものの、その後、我が家にも注目されることなく、歴史の陰で残り4ヶ月の短い生を終えることになったわけだ。銀のメタルスーツのヒーローに後を託してな」

ハイラス「そう聞くと、何だかサンディベル殿が可哀想でござるな」

NOVA「おお、聞くも涙、語るも涙とはこのことよ。それでだ、うちの妹たちにも見限られたサンディベルだが、俺も今まで『私、サンディベルのファンだったんです』って人は見たことも会ったこともないんだよ。ルンルンやララベルのファンだったと言う芸能人やら、知人女性は記憶にあるんだがな。しかも俺、7時半枠前番組の『レッドビッキーズ』まではちゃんと見ていたんだぜ。さらに遡るなら、Wレッドビッキーズと、その間に挟まれたバレーボールドラマの『燃えろアタック』と、さらなる前の『ロボット110番』と伝説の『ロボコン』まで普通に見ていた記憶がある。つまり、宇宙刑事ギャバンの直前はサンディベルだが、それ以前は今年が生誕80周年に当たる(スーパーマンやD&Dのゲイリーさんと同じ誕生年であらせられる)石ノ森章太郎原作の実写ドラマが続いていた枠なんだな。そこにサンディベルが一瞬飛び込んで来たけど、昔の俺はきれいにスルーしてしまったわけだよ。主題歌も覚えていないぐらいにな。だから、俺はサンディベルのファンとは名乗れない。できるのは、せいぜい不遇な番組を憐れみながら語り、きちんと成仏を願うだけよ」

ハイラス「しかし、サンディベル殿が悪霊化したら、どうなるのでござろうか?」

NOVA「さあ。職業・新聞記者だから、悪意のある新聞記事をいっぱい書いて、社会的地位に大ダメージを与えるような攻撃を仕掛けてくるんじゃないかな? ペンは剣より強し、とか。だけど、ドラえもん帝国には勝てず、昔の俺にもアピールできないほどであるが。それでも一つ、サンディベルの偉大な功績はある」

ハイラス「それは何でござるか?」

NOVA「声優・山本百合子さんのデビュー作なんだよ。ナージャ小清水亜美さんのデビュー作であるのと同じようにな。つまり、声優ファンの人にとっては、サンディベルは神聖不可侵な存在かもしれない。サンディベルを敵に回すということは、声優の山本百合子さんを敵に回すことと同義だから、イクサー1や、南斗最後の将や、ダンクーガの結城沙羅や、白銀聖闘士の魔鈴さんなどに愛着のある俺としては、サンディベルがみすみす悪霊化するような事態は防ぎたかったわけだよ。もっとも、その必要はなかったようだな」

ハイラス「どうしてでござるか?」

NOVA「声優つながりで考えるなら、サンディベルの声の人はその後、転生を果たして、平成サリーの声を担当していたんだよ。サンディベル自体は不遇でも、彼女の魂はきちんと魔法少女として蘇った。ナージャの声が後にプリキュアになったみたいにな。それを知っただけでも、この場でサンディベルを語る価値があったと思うぜ。今後、俺の中では『サンディベル=山本百合子さんのデビュー作として、ギャバンを生み出し、後に魔法使いサリーとして転生を果たす』という時空ドラマが構築された。だったら、もう悪霊化して、『花粉症ガールVSサンディベル』なんて話を書く必要はなくなったわけだ。まあ、書けと言っても、サンディベルを知らない以上は書けないだろうけど」

ハイラス「愛はないのに、無理やり話をつなげてサンディベル殿の話を続けてきたNOVA殿に感心しながら呆れつつ、今回の記事はこの辺りで終えておくでござる。これ以上グダグダにならないうちに」(完)